ACT03「接続:今この瞬間に…」
さて今回はACT編第3弾となります。
今回はACTにおける「接続」のご紹介になります。
「ACT」とは認知行動療法であり、「ACT」を実践する事で、思考に振り回される事なく、心理的柔軟性=「今、ここに存在し、心を開き、大切なことをする」能力を以て、本当の幸福へ歩む活力を得ることが出来るとします。
実際に,うつ病や様々な精神疾患、統合失調症にも多大な効果を発揮すると言われています。
「接続」とは、正確には『「今、この瞬間」との接触』と言いますが、どういうことかと言えば…
多くの方が「今を生きている」ようで、その意識は過去の後悔や、未来への不安、その他どうでもいいような思考に埋没し、「今、この瞬間」を見過ごし続けています。
「接続」はその見過ごしている「今、この瞬間」と完全に繋がることです。
過去や未来などの思考に埋没している自分を「今、ここ」に引き戻し、妄想から目覚め「今、この瞬間」に起っている事に気づき、「今」をフルに体験する事こそ、意義のある人生の過ごし方と言えます。
人生における大切な瞬間は常に「今」なのです。
では、思考に埋没して過ごすことが如何に無益な行為であるか、何故「今この瞬間」と繋がる事が大切であるか…見ていきましょう。
さて、それではACT編03「接続:今この瞬間に…」の始まりです!
前回までの内容を踏まえた上での解説になってきますので、まだそちらをご覧になっていない方は、是非お目通し頂ければ幸いです。
大事な瞬間は「今、ここ」
まず初めにこの言葉をご紹介します。
偉大な作家トルストイの名言です。
全てはこの名言に集約されていると言えますが…
これで終わりにしてしまうのも味気ないので、もう少し深掘りしていきますか。
さて、あなたは「今」どこで何をしているでしょう?
こう問われるまで、自分が「今どこで何をしているか…」と意識することは殆ど無いのではないでしょうか。
普段から自分が今どこで何をしてるか意識できているでしょうか?
- ぼんやりと歩いていて気がついた時には、自分が辿ってきた道程も、道すがら、どこで何を見聞きしてきたかもまるで覚えていない…
- 他人と対話中、別の事に気を取られて話が全く入ってこない…
- 大した用もないのにスマホを見ていて、周囲の変化に気が付かない…
誰でもこのように、日に何度も「心ここに在らず」な状態にあるでしょう。
多くの人が「今」を見ているようで、見れていません…無益な思考に埋没し「今、この瞬間」を見過ごし続けています…。
では、我々が「心ここに在らず」な時、どのような思考に埋没(思考とフュージョン)しているのかといえば…過去の後悔であったり、未来への不安であったり、暇つぶしのスマホだったりしますが…
- 過去は何もかも過ぎ去った事。
- 未来はまだ何も起っていない事。
- 無目的なスマホ閲覧は脳にゴミを溜め込む事と同じ。
そんな思考に埋没していても何にもならないどころか、後悔や不安に取り憑かれてネガティブになったり、頭に溜まったゴミの影響で論理的思考ができなくなる等、むしろマイナス面の方が大きいのです。
『心ここに在らずで「今、この瞬間」を見過ごす』とはどういうことか…それは、サングラスをして映画を観たり、耳栓をしながら音楽を聴くようなものであり、人生の大半を無駄にしてしまう事なのです。
接続と観察する自己
「接続」とは、目覚めること、今起っていることに気づくこと、世界に参加すること、人生の一瞬一瞬の充足に感謝する事です。
先ほど、多くの方が「今」を見過ごし続けていると書きましたが…その実「接続」は誰でも何度も経験しているはずなのです。
- 美しい景色を見た時…
- 大自然の中で鳥のさえずりに、川を流れる水の音に、木々が風に揺られる音に耳を傾けた時…
- あるいはパートナー、子供、ペット…それら愛しい存在と共にいて、ただただ愛しいと感じる時…
「美」や「快」や「愛」…それらに完全に浸り切り、他の事など一切考えない、言語を超越したエキサイティングで純粋なる体験…
「時間よこのまま止まってしまえ」…
みたいに感じる瞬間…これが「今この瞬間」と「接続」している状態です。
このように「接続」は刺激的で、楽しい環境の中で自然発生的に起こります。
しかし残念ながら、その状態が長く続くことはあまりありません。
遅かれ早かれ「思考する自己」がなんだかんだと囁き始め、物語を語り出し、あれこれと判断をし始め…筆舌に尽くし難い体験に水を差し、我々を「今この瞬間」の経験から引き剥がしてしまいます。
「思考する自己」と「観察する自己」については前回の記事https://mahabeat.com/act02/を参照していただければと存じます。
「接続」は「観察する自己」を通して起こります。
「今、この瞬間」と接続した状態は、思考する自己の影響を受けず、あるがままの純粋な体験として「今・ここ」に完全に集中します。思考する自己は純粋な体験に言語を介入させ判断を下しますが、観察する自己は体験に判断を下しません。
観察する自己は現実と争うことはせず、物事をあるがままに見るだけで、それに抵抗しません。抵抗は物事の良し悪し、公平か否かについての判断とフュージョンした時に起こります。
「思考する自己」は現状を認めようとはせず、自分の理想こそが正しいと主張します。つまり目の前で起きている現実の世界を覆い隠し、我々を妄想の世界に引き摺り込むのです。
「もっとこうだったら良いのに」「この世の中は間違っている、おかしい」「何か良いことないかな」…このように埒が開かないことばかり妄想し、目の前の事に注意散漫になり、退屈を生み出します。
退屈とは「もっと別のことをすれば、人生はもっと面白く充実したものになるはずだ!」という思考のプロセスです。
思考する自己は、日々の通学や通勤の道中でも「これはもう見た、知っている」“退屈なものである”と判断し、それらに目を向けたり気を配ることを止め、「もっと別な何か」を考えさせ、妄想に浸らせます。
日常を“当たり前で退屈なもの”であるとし、本当は毎日通う道でも毎日変化しているという事に気づけません。
思考する自己が主導権を握っている限り、我々は半分しか目覚めておらず、自分を取り囲む世界の豊かさに気づくことができません。
一方「観察する自己」は退屈を知りません。
持ち前のオープンさと興味によって観察するもの全てを全身全霊で感じとります。
新しいエキサイティングな経験だろうと、すでに何度も経験した不快な物事であろうと、それらを我々にとって幅広く、奥深い経験にしてくれます。
何事もオープンで好奇心に満ちた態度(マインドフル)でいると、かつては恐れていたことでも、以前ほど嫌ではなくなってきます。
同様に、我々が「今、この瞬間」と真に繋がっている時は、これまでに何度も経験したありふれた物事を、新しい見方で経験することも出来ます。
我々は何かと「思考する自己」に主導権を渡しがちではありますが、ここで朗報です。「観察する自己」は常に存在し、待機しています。
思考の渦に飲み込まれそうな時でも、いつでも観察する自己にバトンタッチすることが出来るのです。
↓念の為「思考する自己」と「観察する自己」について前回の記事より簡単に抜粋しておきます…*既に該当記事をご覧の方は飛ばしても構いません。
ACTでは「自己」と言うものを二つの概念で捉えます。
それが…
- 思考する自己
- 観察する自己
です。
この二つをざっくりと説明すると。
これは文字通り、アレコレと思考を生み出す自己です。
計画、判断、比較、想像、創造、視覚化、分析、記憶、空想、夢想などを担当し、平たくいえば「マインド(認知的能力)」となります。
もっと分かりやすく言うなれば「心」ですね。
「観察する自己」は「思考する自己」とは根本的に異なります。
観察する自己は、何かに“気づき”はしますが、考えはしません。観察する自己は、集中、注目、気づきなどを司ります。
舞台劇に例えるなら…
「思考する自己」は舞台上でアレコレと演技をする演者。
「観察する自己」はそれを客席から見ている観客。
と言う感じですが…
もう少し説明が必要ですね。
我々人間は思考する生き物なので、どうしても思考している自分(思考する自己)が自分であると認識しがちではありますが、以前も述べたように、我々が思考のままに生きていたら今頃は全員が刑務所か病院にいなければなりません。
「思考=自分」ではないと再度理解しておく必要があります。
「思考する自己」と「観察する自己」の違いを物理空間での現象に喩えるなら…
例えば、野球をしているとします。
あなたはバッターで、バッターボックスに立っています。
相手ピッチャーが今まさに、ボールを投げようとしています…
あなたは、ピッチャーがどんなボールを投げてくるか、その一挙手一投足に注目しています。
いざボールが投げられ、自分の目の前に飛んでくるまでボールに集中し釘付けになっています。
この注目し、集中しているのが「観察する自己」の働きです。
では「思考する自己」は何をしているかといえば…
「めっちゃ速そうな球や」
「あ、汗で手が滑ってバットが飛んでいったらどうしよう」
「今日の晩御飯何食べよう」
と、埒もないことばかり考えているのが「思考する自己」です。
観察する自己が、埒もない思考に過剰な注意を向けてしまう事で、集中が阻害される場合もあります。
集中しなきゃ!集中しなきゃ!
とか考えていると、かえって集中できない事ってありますよね。
「思考する自己」と「観察する自己」の違いを精神的空間で喩えるなら…
先ほども引き合いに出しましたが、舞台劇を例としましょう。
この舞台は一風変わっており、演者それぞれが同じ舞台上で別々の劇を演じています。
舞台上には様々な演者が、それぞれ思い思いの劇を演じています。
「怒りの劇」を演じる者、「笑いの劇」を演じる者、「悲しみの劇」を演じる者、「訳のわからない劇」を演じる者…
この舞台の登場人物、演者を生み出しているのが「思考する自己」です。
そして、その舞台で繰り広げられる劇を観客席から観ているのが「観察する自己」です。
観察する自己はただただ舞台を眺めています。
それぞれ異なる劇を演じる演者たちを観ています。
その中でも目立たない劇、目立つ劇…様々な劇が目に入りますが、やはり目立つ劇、激しい劇を演じる演者に注目してしまいがちです。
この激しい劇を演じている演者こそが「ネガティブ思考」である場合が多いのです。
その激しい劇を演じる演者に見入ってしまい、他の演者が見えなくなると、その演者(思考)とフュージョンしていると言うことです。
ひとつの劇に没入してしまう事より、舞台全体を見渡すことが大切なのです。
思考とフュージョンすることなく、ただただ「観察する自己」を通して思考を観察できている状態が「脱フュージョン」ということです。
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