ACT 00「感情コントロールを手放す」

2022年8月1日

我々は社会生活において、しばしば感情のコントロールを求められます。

別の言い方をすれば自制心とでも言いますか…

確かに一般常識においてある程度の自制心は必要になってきます。

例えば、葬儀でゲラゲラ笑うわけにも行かないでしょうし、クラシックコンサートで突然怒声を張り上げたりしては迷惑千万です。

この程度の一般常識の範疇、公衆での迷惑行為や、他人を傷つけない為の感情のコントロール、自制心は社会人として持ち合わせて然るべきでしょう。

当たり前ですね

何事にもいちいち感情的に感情論だけで立ち向かっていては、社会は混乱を極めるでしょう。

とは言うものの、我々人間は感情の生き物です。

社会生活において最低限の自制心は発揮できたとしても、こと自分自身や身の回りの事に関して感情を完璧に制御できる人は存在するのでしょうか?

怒りを、不安を、悲しみを、自らの意思だけで完全に封じる事なんてできるものか…。

怪しい自己啓発セミナーなどでは、さも知った顔に

『己のネガティブな感情をコントロールして、ポジティブに変化させましょう。ポジティブ!ポジティブ!ポージーティーブ!!』

などとトチ狂った戯言ざれごとをほざいていますが…

そもそも感情とはコントロールできるものなのか、コントロールすべきものなのか…

今回はそんな「感情コントロール」についてのお話です。

「幸福の罠」

「幸福の罠」と呼ばれる考えがあります。

どういうことかと言えば…

「人は、幸せになろうとすればする程、不幸になっていく」

という事です。

突然何いってんだ!?感情コントロールの話じゃないのかよ!?

なんて風にお思いでしょうが…感情コントロールについても大切なお話になってきますので、続けます。

さて「幸福」とはなんでしょうか?

沢山お金を手に入れ、大豪邸に住み、高級車を乗り回すような「ありとあらゆる物欲を満たす経済力=幸せ」でしょうか?

割と多くの方は、それに近い考えを持っているのでは無いでしょうか。

殊に我々を取り巻く資本主義社会においては、常に「より良く、よりいい気分に、より多く」を手に入れる事こそが幸せであるという、価値観を擦り込まれます。

しかしここに罠があります

この「より良く、より良い気分に」は言い換えれば、「常に今よりいい気分を追い求める」です。


現代的な例えをするなら、あなたがガジェットマニアで、常に最新ガジェットを手にする事に幸福感を得ているとします。

そして当然のごとく、発売されたばかりの最新型の高機能スマホを手に入れますよね。

束の間はご満悦ですが、その「良い気分」は長続きしません。

翌年にはその後継機が発表され、今自分が手にしているスマホが最新でも最高機能でも無くなる現実にぶち当たります。

そうすると、途端に幸福感はかき消され、不満が募り始めます。

もっと「より良く、より良い気分」に…その次はもっともっと…


つまり

「より良く、より良い気分」を追い求め続けるという事は、「常に飢え渇いている」状態です。

これが「幸福」といえるのか…

幸福という感情を必死で搾り出し、追い求め続けても、やがては疲弊し幸福感も尽き果て、無力感と嫌悪感にさいなまれてしまいます。

例え今“その瞬間”は良くとも「より良く、よりいい気分=幸福」を求める限り、幸福は常に一時的なものとなり長続きしません。

むしろ長期的に見ると、長年ストレスに晒されることで、あらゆる身体的疾病しっぺいや精神疾患を患う元凶ともなります。

これが「幸福の罠」と呼ばれるものです。

これは金銭や物欲だけの事ではありません、あらゆる人間関係、恋愛・結婚、仕事…人生の全てに当てはまります。

幸福になろうとし、「より良く、よりいい気分」だけを追い求めると「幸福の罠」に陥ります。

私がよくここで述べている「煩悩を積極的に追い求めてもいいが、執着してはいけない」と同じ事ですね。

では「幸福」とはどうあるべきなのか?何をもって「幸福」とするのか、という疑問も出てくると思いますが…それは後半で説明します。

「幸福の罠」はエセ社会規範

多くの方が「幸福の罠」に陥り、己の感情をコントロールしようと躍起になっています。

「幸福の罠」と感情コントロールになんの関係が??

こういう事です。

「幸福の罠」とは、いわば社会に蔓延る心理的圧迫です。

残念なことに、多くの方がこれまで「幸福=より良いもの、より良い状態を追い求める事」を当たり前としてきました。

  • 誰もが幸福を追い求め、幸福を手にすべき。
  • 幸福になれない者は能力の低い落ちこぼれ。
  • 幸福な者は、感情コントロールをし、常にポジティブである。

このような「幸福の罠」を助長する社会的プレッシャーが「人間とはこうあるべき!」というエセ社会規範を植え付けようとします。

しかしながら、一体誰がそんな風に生きられるのでしょうか?

延々と「より良く」を追い続けられるのはごく限られた人間でしょう…大多数の人はそんな生き方をしていては、すぐに限界が訪れます…故に…

幸福になれない!こんな私じゃダメなんだ!!社会不適合者だ…

と自己批判に陥ってしまうのです。

『ダメだ!』と思う自己批判は自分をコントロールしようとした結果です。

「幸福の罠」というエセ社会規範が人々を縛り、個々人にの感情コントロールを強要します。

感情はコントロール可能?

ではでは、果たして感情とはコントロール出来るのか否か、真相に迫りましょう。

結論から言えば…

ある程度は出来るが、感情を完璧にコントロールする事は出来ない

です。

冒頭でも述べたように、一般常識の範疇、社会生活上の自制心くらいは何とかなります。

しかし感情を完璧にコントロールするなんて到底無理な話で幻想でしか無いのです。

アホな自己啓発が「ポジティブ!ポジティブ!」と言えばポジティブになれる、コントロール出来ると主張するのは、まるっきりインチキです。

では、如何に感情(思考)のコントロールが困難であるか、ちょっとした実験をしてみましょうか…。

「梅干し」を想像するな

「梅干し」を想像しないで下さい。

絶対に想像しないで下さい。

赤くて丸い、想像するだけで酸っぱさが口に広がり、唾液腺が刺激されて唾が出てくる様な「梅干し」を絶対に想像しないで下さい。

どうでしょうか?「梅干し」を想像しないようにコントロール出来たでしょうか?

ではもうひとつ…

悪魔の感情ゲーム

突然、悪魔が現れてこう言いました…

「お前にこの世で一番の富を与えてやろう」

え?!なんとびっくり仰天です。

そんなの信じられる訳ないじゃ無いか…と思っていたところ悪魔は“手付け”として目の前に50億円をポンと置いたではありませんか。

悪魔は言いました「まずはこれを好きに使えばいい、足りなくなったらまた追加してやろう」

なんと!?なんとなんと!?本当に世界一の富を与えてくれるようです!

何にもしていないのに、突如として大富豪になれた貴方は有頂天で、まさに天にも昇る心地でしょう…

「ただし…」悪魔は言います…

「これより喜怒哀楽、一切の感情を抱いてはいかん、如何なる感情でも抱いた瞬間、お前を食い殺してやるからそのつもりでな」

そう言って、悪魔は消えました…

やはり悪魔との契約には大きなリスクがあります…

で、貴方はどうします?

目の前の50億円を何にも感じず受け取れるでしょうか?

大丈夫だ、大丈夫…これを手にしても喜ばなければいいんだ…

そうそう難しくはない…そう自分に言い聞かせ貴方は50億円に手を伸ばします…

それでも、こんな考えが頭をよぎります「もし少しでも喜んでしまえば、悪魔に…」

恐ろしさのあまり、思わず身震いしてしまいます。

次の瞬間、背後に再び悪魔が現れ…

という具合にですね、感情(思考)を完璧にコントロールするという事は、かなり困難である事が分かるのでは無いでしょうか。

経験回避(エクスペリメンタル・アヴォイダンス)

「幸福の罠」によって人は感情コントロール、感情の制御を強要されます。

しかし、先ほどにも述べたとおり、人は感情を完璧にコントロールする事ができません。

にも関わらず多くの人は、苦痛や不安、不快感「ネガティブな感情」が自分を”幸福から遠ざけるもの”であると錯覚し、それら「ネガティブな感情」をどうにか抑えつけ、コントロールしようと様々な方法を試みます。

ヨガ教室やリラクゼーションセラピーに通ったり、気を紛らわすために娯楽に没頭したり…しかし、これらの効果は一時的なものです。

コントロールによって追いやったはずの不安や不快感「ネガティブな感情」は、またすぐに戻ってきてしまう為、コントロール出来なかった自分を愚かで不完全で弱い存在だと感じてしまいます。

こうした望まない結果がさらに不快感を募らせ、さらなるコントロールを試み、どんどんドツボにハマっていく悪循環を生み出します。

このような悪循環を生み出す、過度で不適切なコントロールを心理学では「経験回避(エクスペリメンタル・アヴォイダンス)」と呼びます。

「経験回避」は、望まない記憶や感情を想起させる目の前の現実を、無理矢理に避けたり押し除けたりする為にとる回避行動(代替行動)です。

そしてそれは“たとえそうすることが危険を伴い、無意味で代償が大きい場合でも”不快な現実を回避する為に、あらゆる愚かな行いをしてしまいます。

「経験回避」は、うつや不安症、ドラッグや諸々の依存症、摂食障害などの精神的な問題の主要な原因となります。

不安から逃れる為に酒に溺れたり、薬物に手を出したり、自傷行為に走ったり…これらも「経験回避」です

心はおしゃべり「思考フィーバー」

まず知っておく事実があります。

それは、我々の心(脳)は非常に“おしゃべり”であるという事です。

自分が望む望まないに関係なく、四六時中アレコレと思考が湧き出てきます。

と、ここまで「感情」という単語を用いてきましたが、ここからは、もう少し広く深く捉える為、感情を内包する概念である「思考」という単語に切り替えていきます。

「こんな事思うべきではない」と思うことも無秩序にポンポンと湧き出てき、縦横無尽に、幾層にも重なり、頭の中を駆け巡ります。

これは止めようとも止められないのです。

「梅干し」を考えないように意識している時点で、どうあっても「梅干し」を考えてしまうのと同じです。

思考を止めようとしても、「思考を止めよう」と思考しているのです。

たまに瞑想とかで「心を無にして」とか聞きかじる事もあるかもしれませんが、瞑想とは心「無」にするものではなく、とめどなく溢れる思考の一つ一つに囚われず、呼吸や自分の体の一点に集中するものです。

思考はコントロールする事も、止める事も不可能である。

これが大前提であると知っておく必要があります。

ネガティブが当たり前

我々は「ネガティブな思考」を忌み嫌い、必死で避け、否定しようとしがちでありますが、これを無理矢理コントロールしようとするから「経験回避」などの自分にとって役に立たない、むしろ悪影響を与える行動をとってしまいます。

反射的に「ネガティブな感情」を否定するのではなく、それらと正面から向き合うことが大切です。

その方法は後述させて頂くとして、まずは、どうして人は「ネガティブな思考」を抱いてしまうのか?という側面のお話をします。

我々人間は生き残る為に「ネガティブな思考」を活用して進化してきました。

以前の記事でも触れているので、詳細は割愛しますが、要は「ネガティブな思考」は危険察知能力であったのです。

我々の祖先である狩猟採集民は

  • 「あそこで仲間がサーベルタイガーに食われた、あの辺りは“恐ろしい”所だから避けて通ろう」
  • 「このキノコを食べて仲間が死んでしまった。これは“危険”なキノコだ。食べるのを止めよう」

このように、「ネガティブな思考や記憶」を強烈に維持し続け、生き延び進化してきたのです。

ですから、祖先の遺伝子を受け継いだ我々現代人もその性質を持っていて然るべきなのです。

ついつい「ネガティブな思考」をしてしまうのも、むしろ「ネガティブな思考」ばかりが浮かんでくるのは”当たり前”なのです。

ネガティブな思考が湧いてきても、慌てふためき抑え込もうとせず「そういうもんだ」と思っておけばいいのです。

ネガティブを否定し、無理矢理ポジティブになろうとする事で痛みが生じ、苦しむことになります。

肝心なのは「フュージョン」しない事

ここまで見てきたことをザッと表すと…

  • 「思考はコントロールする事も止める事もできない」
  • 「我々はネガティな思考ばかりを考えてしまう」

という感じになりますね。

おいおいおい!ちょっと待て!おいおい!じゃあネガティブな思考に翻弄され続けるだけじゃないか!?おいおい!

ですが、それは少々早とちりで…

では、我々が思考をコントロールする事が出来ないという事は、逆に「思考が我々をコントロールしているのか?」ということについて少し考えてみましょうか…

どうでしょう?我々が思考のままに行動していると想像してください…


気に食わない相手は誰彼構わず問答無用に殴り飛ばし、時には殺め…

街中で突然大声を張り上げ全裸になって走り出し…


さて、どうでしょう…?

我々が思考のままに行動を起こしていたとすれば、我々は今頃みんな刑務所か病院にいるはずじゃ無いでしょうか?

つまり

「思考」が人をコントロールする事はない

ということになります。

「思考」はあくまでただの頭の中の物語であって、事実ではありません。

ポジティブであれネガティブであれ、思考そのものが現実に影響を及ぼす事はあり得ないのです。

では、何故人は多くの場合、不安や恐怖といった「ネガティブな思考」に取り憑かれ、思い悩み続け、時には心身に悪影響を及ぼすということが起こるのでしょうか…

人が「ネガティブな思考」に支配され苦悩する時、それはそれら「ネガティブな思考」と自身がフュージョン(同化)してしまっているからです。

フュージョン??

もう少し分かりやすく言うと、「ネガティブな思考」も、あくまで思考であり、現実や事実では無いと言う事です。

ですが、それらの思考を現実であると思い込んでしまうのが「フュージョン」です。

思考が「私は無能で馬鹿だ」と語りかけてきた時、それを鵜呑みにし「私は無能で馬鹿だ」と思い込んで、自分にそのような自己評価を下してしまうのが「フュージョンした状態」です。


「過去のネガティブな記憶=トラウマ」に苦しむのも、過去の記憶とフュージョンしているからです。

「過去は過去、過ぎ去ったもので、今この現実に影響を与えられるものではない」と、思考と目の前の現実をしっかりと区別する必要があるのです。

これは、未来への不安に対しても同じです。

「望まない未来」を恐れフュージョンしてしまうと、実際には起こる確率が極端に低い事柄に対しても、必要以上に恐れ、不安に取り憑かれて、目の前の現実が見えなくなってしまいます。

思考とフュージョンしてしまうと、思考に振り回され、現実が見えにくくなるのです。

どんなネガティブなものでも「思考は思考であり、それ以上でもそれ以下でもない、現実に影響を及ぼすものではない」としっかり思考と距離を取る必要があります。これを「脱フュージョン」と言います。

なるほど、わかった…しかし、だからと言ってそんなことが人間にできるものなのか?思考のコントロールができない以上、どうすれば「ネガティブな思考」と距離を取ったり、振り回されないようにするんだ??

と思う事でしょう。

しかし、ありがたいことに、こういった「思考に振り回されないテクニック」は体系化され、実在しています。

ACTアクト

予想以上に、少々濃い内容と文章量になってしまいましたが、実は今回は導入編に過ぎません。

なんの導入編かといえば、今回は認知行動療法である「ACTアクト」の内容に基づいて書かせていただきました。

「ACT」とは「AcceptanceアクセプタンスCommitment Therapyコミットメント・セラピー」の略で、簡単に説明すると(簡単に説明できるものではありませんが)

今回述べたように、思考に振り回される事なく、心理的柔軟性=「今、ここに存在し、心を開き、大切なことをする」能力を以て、本当の幸福へ歩む活力を得ることが出来るとし…ACTの目的は

「人生がもたらす不可避の苦しみを受け入れながら、豊かで充実した意義ある人生を送る手助けをすること」

とあります。

ACTは多くのうつ病患者、さまざまな精神疾患患者、さらには統合失調症患者にも抜群の効果を発揮すると言われています。

とまぁ、今回は導入編ゆえ、ここでいろいろ書いても、意味がわからんであろうし、到底書き切れるものでも無いので、ACTについては追々一つずつご紹介させて頂くとして

「ACT」の定義する「幸福」とは一言でいえば…

「心地よさを求めるのではなく、己の価値に従って生きる」

です。

この「価値に従う」と言う考え方が非常に秀逸なのですが、その全容は、これから後に全6編構成に渡ってお届けしていくつもりです。

次回はACT編01「脱フュージョン」です。

それではまた!