完璧主義は半端もん

自分自身も環境も何事も「完璧」でなければ気が済まないのが「完璧主義者」です。

「完璧である」ということは一見素晴らしい事のように錯覚しますが、それは大きな間違いであると認識しなければいけません。

完璧主義は視野が狭く、周りが見えず、方々ほうぼうで迷惑をかけたりする事も少なくなく、場合によっては自身を破滅へ追い込んでしまう事もあります。

「完璧主義」は精神医学では、精神疾患のひとつとされます。

そして90年代以降の現代、この「完璧主義者」が増加傾向にあるようです。

原因のひとつとして考えられるのは、TVや雑誌、メディアよる人心の扇動が過激化し始め、殊に近年ではSNS等、インターネットメディアでのインフルエンサー達による所謂いわゆる「映え」も大きく影響しているでしょう。

芸能人やモデル、インフルエンサー達の見せる煌びやかな世界への羨望は、やがて自身との比較対象となり、彼らと自分のギャップに傷付き「自分もあんな風にならなければいけない」と強迫観念が焦燥感を煽り、完璧主義者へと足を踏み入れてしまう…このようなケースが後を絶たないのではないでしょうか。

しかし、これらメディアだけが完璧主義者を生み出しているのではありません、親の教育だったり、学校や社会での影響であったり、様々な事が原因で人は完璧主義に走ってしまいます。

では、一体「完璧主義」に陥ると、どのような弊害が生じるのか?「完璧主義」に陥らない為にはどうすれば良いのか?

今回はそんな「完璧主義」についてのお話です。

「完璧主義者」は誰だ!?

「完璧主義者」とは一体どのような人間の事を指すのか…

普通に思い浮かべれば「何事にも完璧を求める人」となるでしょうが、実はそんなに極端すぎる人間だけが完璧主義者であるとは言えません。

程度の差はあれど、誰でも「完璧主義」に陥っている可能性があります。

例えば…

  • 起こる確率が極めて低い事まで、ありとあらゆるケースを想定しがち。
  • 決まった時間に食事が出来なければ気分が悪い。
  • ノートは綺麗に書かなければいけないと思っている。
  • 自分の決めたルーティンを乱されるのが嫌。
  • わずかな体型の変化や、体重の増加が許せない。
  • 少しのミスですぐにゲームをリセットしてしまう。

このような傾向にある人は要注意です。

「〇〇がなければ」「××じゃないと」「□□だったら」みたいに…

  • 本質的に関係の無い事柄や比較的に重要でない要素までクリアにしなければ気が済まない。
  • 変化やイレギュラーを極度に嫌い恐れる

という人は「完璧主義」に陥っていると言えます。

割と身の回りに多いんじゃ無いでしょうか…もしくは身に覚えが…

血を吐きながら続ける悲しき「完璧マラソン」

まずここで一つ結論から言っておくと…

「完璧主義者」が完璧になれる日は来ない…永遠に

です。

何故そうなのか…

一口に「完璧主義者」といっても千差万別で、彼らを取り巻く環境は様々です。

それでいて何を持って「完璧」とするかは当人の判断基準でしかありません。

この世に普遍的な「完璧」という基準は存在しません。

つまりです…

彼らは自分の身の回り、手の届く範囲、尚且つその瞬間でしか完璧でいられないのです。

この世は諸行無常…世は常に移ろい、時の流れと共に環境も絶えず変化しています。

世の中が変われば、自分の置かれる立場も変化するのは当然です。一度ひとたび、自分が「完璧だ!」と思えたとしても、一瞬で過ぎ去ります。

ファションなどのトレンドを見ればわかると思いますが、いくら流行のファッションで身を固めて完璧を装っても、そんなものはすぐに廃れます。

環境の変化が「完璧では無くなってしまった」と完璧主義者の焦燥感を煽り、駆り立てます。

判断基準が当の本人なので、「いや、それでも俺は完璧だ!」と自分を偽る事もできません。

自分を偽ろうとしても、己の中で不協和音が生じ、虚栄心と焦燥感は加速します。

常に完璧を追い求め、走り続ける事を止められません…

この世の時が止まってしまわない限り、完璧に完璧な状態は決して訪れないのです。

なんとも虚しい…

と、この様に見ると「完璧マラソン」を走り続ける事は愚かしい事の様に思えますが、見る角度を変えるとこの「完璧マラソン」を走り続ける人間は“超優秀”であると言えます。

常に完璧を追い求め走り続ける事は、並大抵の能力や経済力では到底無理だからです。

では「完璧主義者=超優秀」なのかという事になってきますが、ここに大きな落とし穴があります。

人生において「完璧マラソン」を完走できる人間がいるとしたら、確かにその人は"超優秀”であると言えるでしょう。

しかし大抵の「完璧主義者」は早々に「完璧マラソン」に限界を覚え、リタイアしてしまいます。

「完璧マラソン」をリタイアした「完璧主義者」…

実はこれこそが厄介なのです!

完璧バリア!「自分ゾーン」

「完璧マラソン」をリタイアした「完璧主義者」が、次に出る行動は“外界を遮断する”です。

「複雑で常に変化を伴う外の環境」に左右されない自分だけが完璧でいられる世界へ逃避するのです。

つまり、全てが自分の価値観だけで構成される世界、浅はかでチープな「自分ゾーン」を作り上げ、そこから出て来なくなるのです。

この「自分ゾーン」にいる間は完璧でいられます。

当然です、全ての価値基準が自分だけなので…。

自分が完璧でいられる都合のいい情報しか取捨選択しなくなり(確証バイアス)、この「自分ゾーン」から出ることも、他の誰かの侵入を許す事もできないので、人の話を聞けない、自分の意見を変えられない人間となってしまいます。

浅く狭く、尚且つチープな完璧を維持する為に、完璧主義者は躍起になるのです。

さて、ここからは「完璧主義者」の定義を『完璧主義者=自分ゾーンに立て籠る人』とします。

「自分ゾーン」に逃避せず、「完璧マラソン」を走り続ける人は“超優秀”であり、基本的にあまり害はないので。

確証バイアス』

バイアスとは「偏り」を意味する単語です。簡単に言えば物事に対して人それぞれ、無意識に判断を下す"心のフィルター”の様なものです。

固定観念や経験によって、非合理的な判断や考えをしてしまう事を認知バイアスと言い、様々な種類があります。

認知バイアスのひとつ『確証バイアス』とは、自分の主張を通したい時に、自分の仮説に合う都合のいい情報、自分の思い込みを正当化する情報だけを無意識に集める傾向にあり、反対意見や異なる思想に対しては、抵抗感から無意識に軽視・排除します。

完璧コンプレックス

「自分ゾーン」に立て籠る完璧主義者は「完璧マラソン」をリタイアした事実『自分はそれほど優秀では無かった』という事実を受け入れたく無い反動によって、自分をより良く見せようと〈完璧な自分=有能な自分〉というコンプレックを強烈に抱えています。

その「完璧コンプレックス」によって社会生活に様々な問題が生じます。

失敗恐怖症

「完璧主義者」は完璧な自分で居続ける、完璧な自分を装い続けたいが為に、失敗を許容できません。

「失敗=恥=完璧じゃ無くなる」と考え、誰かに失敗したと見られるのも、自分が失敗したという事実を受け入れるのも恐ろしいのです。

失敗が許容できないので、何かにチャレンジする事も出来ません。

失敗しそうな要因が少しでも見え隠れすると、その時点でチャレンジを放棄してしまいます。

そもそもチャレンジしなければ、失敗もクソないと考えるのです。

なので、誰にでも出来るようなリスクの無い(失敗しない)事にしか手を出さず、簡単な事だけ“こなす”ことで有能な完璧主義者を演じています。

「完璧主義者」は、“何も新しいことを始められない人間=チャレンジできない人間”という事になります。

思考停止症候群

「完璧主義者」は、何かが欠ける事も、変化する事も許せません。

「〇〇じゃなければ…」と、一方向の思考にしがみつき、他のあらゆる可能性に目を向けることが出来ません。

「外界=他人の意見」を聞く事も出来ないので、思考停止し、行き詰まり、最後には全て“無かった事”にして投げ出してしまいます。

人間関係にも完璧を強要

「完璧主義者」は人間関係においても身勝手な完璧を求め、他人にも自分基準の完璧を強要します。

相手に少しでも気に食わない所を見つけると、一方的に関係を切ったりします。

なんとも自分本位でムシのいい話では無いでしょうか。

相手の中の好きなところが好きなのは当たり前であり、人間関係というものは、相手の中の自分にとって嫌な箇所を如何に受け入れられるかが肝要なのでは無いでしょうか。

様々な問題を抱える「完璧主義者」は実社会においては、何一つ完璧では無い半端な『無能』と言わざるを得ません。

完璧主義は心の病

「完璧主義者」に対して、やや辛辣な物言いになってしまいましたが、冒頭でも述べたように「完璧主義」は精神疾患です。

過去の何かしらが原因で、心に傷を負い、失敗や変化を極度に恐れるようになってしまった人が罹る病です。

心理学の学術雑誌(アメリカ)「Review of General Psychology」によると…

「完璧主義者」は心の傷を隠しつつ、自分自身を破滅へと追い込もうとしている。

としています。

そして、実際に自殺者の過半数が「完璧主義者」であったといいます。

必要以上に自分の能力を高く見せようとするが故に「自分ゾーン」と外界(社会)との齟齬そごはどんどん広がり、現実と妄想が激しく乖離かいりし、気がついた時にはもうどうにも出来なくなって、矛盾と絶望の渦に飲み込まれ…最後には自らの人生も“無かった事”として放棄してしまう。

このような人間が増加傾向にあり社会に溢れかえっている

これは看過できる問題ではありません。

「完璧主義」に陥らないためには

「完璧主義」に陥る原因は様々ですから、一つ一つ対抗策を講じるという訳にはいきませんが、常日頃の意識、物事の考え方や捉え方次第で、心の予防線を張る事はできます。

「この世は根本的に不完全である」事を理解する。

まずは何と言ってもこれでしょう。

「この世は根本的に不完全である」事を理解するのです。

人間は不完全ゆえに完全情報への憧れを抱き「完全なるもの=神」という概念を生み出しました。

逆説的に言えば、神でないものは全て不完全なのです。

あなたは神ですか?

おそらく違うと思います。

そして、この世は神という概念が生まれる以前から今現在も不完全なままです。

そもそも、完全なる世界なら『この世は完全か否か』なんて疑問すら生まれません。“完全である”とはそういう事です。

不完全な世に生まれた、不完全な人間が、どうして完璧になんてなれるでしょうか

そういうもんだと、素直に理解しておけばいいのです。

「〇〇で無ければ出来ない」を捨てる

何か目的がある時に「〇〇で無ければ出来ない」という考えも捨てましょう。

先も述べたように思考を限定する思い込みは思考停止を招きます。

あらゆる可能性を見据える視野の広さを持ちましょう。

思い込みを捨てることで視野はグンと広がります

物事にいちいち意味を求めて固定しない

何かにつけて、物事に意味を求めて固定したがるのを止めましょう。

『これはこうだからこうだ!』と意味を固定するラベル貼りは固定観念を強固にしてしまい、思考の柔軟性が失われます。

その日の気分や見る角度…物事はその時々で変化するものだと理解しておきましょう。

全てはあるがまま、意味なんて己の主観で如何様にも変化します。

意味を見出すから意味が生まれますが、それは流動的なものです。世は絶えず変化しています。凝り固まったラベル貼りは無益です。

100点を目指さない。常に余白を意識する

徹頭徹尾、計画の練ってガチガチに何でも詰め込みすぎるのも良くありません。

常に100点を目指そうとする必要もありません、大体60〜70点くらいで良しと考え、頭に余白を作っておくことが大切です。

余白とは余裕のことです。

心と頭に余裕があるからこそ、不足の事態でも臨機応変に対応できます。

リラックス

情報のデトックス

これは私が度々言っている事ですが、情報の洪水スマホの依存に気をつけましょう。

情報を求めれば求めるほど脳はぶっ壊れていきます。

意図的に情報に触れない時間を作り、脳を正常な状態に保ちましょう。

脳は自分の司令塔です。司令塔が狂えば全てが狂います。そして一番恐ろしいのは狂っても自分では気付けないという事です。

終わりに〜何事もバランス〜

さて、ここまで「完璧主義」について見てきましたが、いかがでしたでしょう。

こうして見ると「完璧主義」とは"百害あって一利なし”と見えるかもしれませんし、実際そうであるのですが…

では対極にあたる「ズボラ」や「自堕落」な生活が良いかといえば、これも良くありません。

散らかった部屋を片付けるべき時には片付ける。

計画を立てるべき時はしっかりと計画を立てる。

何事もバランスです。

その中で臨機応変に対処できる余裕をいつでも持っていることが大切です。

かつて天体は、神々の住む完璧な世界と考えられていた故に、星々や月の表面は遠くから見たままのツルッツルでピッカピカの完璧な球体だと思われていました。しかし、ガリレオの天体望遠鏡によって初めて明らかになった月の表面はクレーターでボコボコで、とても完璧と言える世界では無いことが知れ、当時の人々は大変ショックを受けたと言います。

そんなもんです。

人生なんてよく見ればボッコボコの穴だらけで、不完全で、不恰好なものです。

そんなもんです。

だからこそ、人生とは素晴らしく楽しいのです。

良いも悪いもなく…そんなもんです。

肩の力抜いて、自分を見失わないように生きたいですね。

それでは今回はここまで。
ではまた、良い人生を。