四苦八苦しながら生きればいいよ

2021年11月22日

「四苦八苦」という言葉は「とても苦しむ」という意味の四字熟語として多くの方が認識しているのでは無いでしょうか。

しかし、この「四苦八苦」は元は仏教用語です。

仏教では「この世は全て苦である(一切皆苦いっさいかいく)」とし、あらゆる苦を表すのが「四苦八苦」です。

」とは、そして「この世は全て苦である」とは、果たしてどういう事なのか見ていきましょう。

」とは

」とは苦労や、苦しみなどの単語に用いられる漢字で、呼んで字の如くですが、仏教的には「思うようにならない事、欲するものが手に入らない」という意味です。

まぁ、苦しむとは要はそういう事ですね。

「苦」=思うようにならない事

この世は全て苦である=一切皆苦

我々はこの世に生を受けて、日々一喜一憂しています。

嬉しいこと、悲しいこと、楽しいこと…人生とはこれらの様々な感情が彩り、良い時も悪い時もあるもんだと、誰もが経験上知っているし、そこに疑問も無いのでは無いでしょうか。

しかしブッダ(お釈迦様)は、それらは全て幻想であり、人間とは根源的に「苦」なる存在である、と説きました。

さて、どういうことかといえば、我々は基本的に「苦」の中にいて、自らの主観によって日々の起きた出来事に対し「良かった、悪かった」と上っ面の評価を下しているに過ぎない…ということですね。

世の事象(出来事)、世のことわりには「善も悪も」「良いも悪いも」ありません。

世界は常にあるがままでしかありません。

全て我々の主観で「良い、悪い」と判断しているだけに過ぎません。

そしてそれは事象が起こった後、結果に対してのみ「良かった、悪かった」と判断することができ、これから先の未来において自分の望むような事象を選べる人間はいません。

サッカーの試合で勝利した側にとってはその日は「良かった」日でしょうが、負けた側にすれば「悪かった」日となります。

同じ「サッカーの試合をした」という共通の出来事でも主観によって変わります。

また今日勝てたからといって、次も勝てるとは限りません「勝つかもしれないし、負けるかもしれない」

「確実に勝てる、何が何でも勝てる、100%決まっている!」ならば、そんなに「楽」なことはありませんが、この世に絶対はありませんし、勝ちたいと望めど、勝負とは「どうなるかわからない」そういうものでしょう。

サッカーの試合だけではありません、世の中、何事も先の事は、どうなるかわからないのです…つまり「世の中の全て思い通りにはいかないものである」…それが「この世は全て苦である」ということです。

四苦八苦

「この世は何事も思い通りにはならないものである=この世の全ては苦である」という理屈は何となく理解できたのでは無いでしょうか。

では次はいよいよその「苦」を分類する「四苦八苦」を見ていきましょう。

四苦八苦とは、「人間が生まれ持った根源的な苦」と「社会生活における苦」に二分されます。

根源的な苦

人間が持って生まれた避けることできない苦。生老病死苦しょうろうびょうしく四苦しくともいう。

生苦

生まれてきた苦。この世に生まれてしまったが故に数多くの苦を味わうことになる苦しみ。

老苦

老いる事への苦しみ。

病苦

病にかかることの苦しみ。

死苦

死ぬ事への苦しみ。

社会生活における苦

人間が社会生活上を送る上で避けることのできない苦

愛別離苦あいべつりく

愛する者との死別、生き別れる苦しみ。

怨憎会苦おんぞうえく

怨みや憎く思っている相手に出会う苦しみ。会いたく無い人に会わなきゃならない苦しみ。

求不得苦ぐふとくく

求めても求めても満たされない苦しみ。果てのない欲求や、止めどない物欲による苦しみ。

五蘊盛苦ごうんじょうく

心身が思い通りにならない苦しみ。

「五蘊」とは?

「五蘊」とはしき(肉体)、じゅ(感受)、そう(観念)、ぎょう(心の動き)、しき(認識)の五つのことで人間はこれらが仮に束になって成り立っているだけで、自我や霊魂など実体的なものは無いという考え方。

8つの苦で「四苦八苦」

苦の基本である生・老・病・死の「四苦」に「社会生活における苦」の4つを加え、合わせて八苦で「四苦八苦」となります。

また「五蘊盛苦ごうんじょうく」は「四苦八苦」を一つにまとめたものとも考えられ、五蘊ごうんの集まった人間という存在そのものが苦であるという意味です。

この世は「苦」であるとして、我々はどう生きるべきか

さて、ここまでは「苦」の解説に徹してきましたが、ここからは毎度お馴染み私の屁理屈へと入らせていただきます。

ここまで見てきた通り、「この世の全ては苦」であり、我々人間は根源的に抱える苦と、社会生活上の苦「四苦八苦」からは逃れられないとされています。

果たして本当にそうであるのか?

「苦」を「思い通りにはならない」との意味で捉えるなら、それはまさにその通りでは無いでしょうか。

誰しも老い、病み、死に、愛する人とも必ず死別しなければなりません…これは人の意思では抗うことは出来ませんし、どうにもできないし、思い通りにはなりません。

はい、どうやら我々は「苦」の中に生き、「苦」からは逃れられ無い様です。

まさにこの世は「苦」に満ちています。

で、どうしましょうか…。

「苦」の連続、「苦」に満ちているからといって人生に絶望しますか?

修行者はまず「この世は苦である」として、続いて四諦したい八正道はっしょうどうといったような修行を行うのですが、これは煩悩を消すことによって「苦」も同時に消し去るという事で、世の中から色を消していくような修行なのですが…

これはまぁ、俗世から離れ、そうしたい人だけがやれば良い事であって、我々のように社会生活を送って生活をしなければならない一般人はする必要はないと私は思います。

ではどうすれば良いのか、これに対しては人それぞれでしょうし、一つの答えがあるわけでもありません。

今まで通り「苦」なんて意識せずに、目先の事に一喜一憂しながら山あり谷ありで生きていくのも人生。

「苦」を認め、苦しみながらもがいて生きていくのも人生。

「私の人生に苦なんかない!順風満帆でバラ色よ」であれば、まぁそれはそれで素晴らしいのではないでしょうか。

「これが正しい生き方だ!」と一概には言えるものではないので。

「苦」を積極的に受け入れる生き方

一概には言えないとは言ったものの、それでは今回の屁理屈もここで終了となってしまうので、一応私なりの「苦」への接し方を述べさせていただきます。

この世の根底は「苦」である。

ならば、それはそれでどうしようもない事なので、下手に足掻くより「そういうもんだ」と積極的に受け入れて生きていけば良いのではないでしょうか…

かつてニーチェが「神は死んだ!この世は虚無だ!」とし、それならそれを受け入れて生きていこうと「積極的ニヒリズム」を提唱したように。

ここで勘違いを生む懸念がありますが、「苦」を受け入れると言っても「どうせこの世は苦だし…」と何もかも無気力に消極的になるという事ではありません。

この世が「苦」なれば、抗いもせず、折れる事もなく、ただそういうものだと理解する、理解していれば一度ひとたび「苦」にさいなまれたとしても、必要以上に苦しむ事もなく、また立ち上がることができる。

言うなれば「ダメもと」でしょうか…あくまで消極的な「ダメもと」ではなく、何にでも積極的に取り組む「ダメもと」です。

「当たって砕けろ!」ではなく「当たって砕けそうになったら、別の方法考えれば良いじゃん!」です。

根底である「苦」を認めつつも、幻想に積極的に生きれば良い。

世界はあるがままでしかなく、浮世のアレコレは人の主観が作り上げた幻想…これは事実として私は認識していますが、とは言え人の意識が生きられる世界は幻想の中だけ、である事もまた事実であると思います。

あるがままの世界と、幻想の世界を融通無碍ゆうづうむげに飛び回ることが「苦を積極的に受け入れる生き方」であるとも言えるのでは無いでしょうか。

少々長くなりましたので、今回はこの章をまとめとさせていただきます。

それではまた!良い人生を!