生きる智慧【総集編】

さて、今回は当サイトにて私が何を伝えたいのか、改めて「週刊少年パンニャー」の趣旨と私の屁理屈の"おさらい”のような視点でお話を進めていこうかと思います。

今を生きる

「週刊少年パンニャー」の趣旨としては、如何に「今を生きる」か…です。

何かと生きづらい現代社会ではあるかと思いますし、そのような社会であるから凄惨な事件や、自殺なども後を絶たないのでしょう。

人によって色々と悩み事もあるでしょうし、今現在苦しみを抱えながら生きている人もいるかもしれません。

しかしながら、それら悩みや苦しみはどこから来ているのかといえば、自分自身です。

言い方は悪いですが、それぞれ自ら悩み、自ら苦しんでいるに過ぎません。

大前提として「人生とは苦なるもの」です。

デフォルトで苦の中にいるのに、更にわざわざ自ら苦しむ必要はありまあせん。

過去に囚われず、必要以上に先の事ばかり考えず、「今を生きる」を基軸とした様々な"生きるテクニック”を示し、悩み苦しんでいる誰かから、悩みや苦しみを取り去り、「今を生きる」大切さを知ってもらいたい。

という想いのもとに書き綴っています。

よろしければ各記事をご参照ください

死にたくなる時があっても、人生とはこういう考え方があったり、こういう捉え方も出来ますよ、自ら死ぬ必要は全くありませんよ、と…できる事なら世の中から「自殺」という選択肢を消し去りたい。

そして、簡単に誰かを「自殺」へと追い込んでしまう、現代スマホ社会にも物申していきます。

人生そんな大した物じゃない

よく、何かに挫折したり、失敗したり、傷ついたり、汚れたり…そんなこんなで自分の人生に汚点が出来たと思い込み、自暴自棄に陥ってしまう方も結構多いのではないでしょうか。

しかしながら、またもや言い方が悪くて申し訳ないのですが、そのような方々は

自分の人生の価値を必要以上に高く見積り過ぎているのでは?

と思います。

煌びやかな己の姿『こうあるべき自分』という理想像もあるのでしょうが、そんな物は捨ててしまった方がいいでしょう。

「自分はこうでなければならない」という観念に取り憑かれると、何かある度に「こんなはずじゃない!」と嘆き、人の話に「そんなんじゃない!」と牙を剥く…

自分の人生のあれこれなど「そんなに大したものかよ」と思っていれば、多少汚れたり、多少傷付いたところで、どうってことないのでは?と思いますが…

勘違いされるかもしれませんが、「大したもんではない」からと言って、ないがしろにしていいと言う意味ではありません。

「生きることが生きる意味であり、目的であり、原則として責任であるが私の持論の根幹であり、辛くても我慢して生きろと言うのではなく、辛いなら辛くないように生きればいいじゃんと思うのです。

「週刊少年パンニャー」には辛くないように生きる智慧が凝縮されています。

この世の全ての命は等しく尊い、と同時に等しく無価値である。

なのです。

お金が無かろうが、好きな人に想いが届かなかろうが、何もかも思い通りにいかなかろうが、大衆の面前で失禁しようが、どうって事ないのです。

生きている限り生きるのが大正解です。

その他の事は瑣末な事なので、自ら自身を縛っているに過ぎません。

余談になりますが…

たまに「キレイなものだけ見ていたい」などと馬鹿な事を口走る者もいますが、それは極めて自己中心的な考えです。

キレイかそうじゃないかは、対象を己の主観で切り取った想念、いわばエゴでしかありません。

この世に根源的にキレイなものも、汚いものも存在しません。

「これはキレイ」「これは汚い」と振り分けているのは、自分自身の身勝手な価値観です。

自分が見たいものだけを見たいなどと、思い上がりも甚だしい…そんな方は外に出ない事をお勧めします。

私の屁理屈へりくつ思想

私はよく仏教思想を持ち出してきて屁理屈を捏ねてますが、私はそもそも敬虔な仏教徒という訳ではありません。

では何故仏教思想を用いるのか…それは便利だからです。

論理的で理に適っていると思うから、使わせてもらっております。

もっといえば「仏教」を語りたい訳ではなく、私自身の物の考え方と仏教思想とが一致している部分が多く、いちいち私が新たに言葉を作り出して語るより、仏教思想の言葉をお借りして語る方が手っ取り早いという事です。

私の言葉を仏教思想に翻訳してもらっているという感じです。

故に便利なのです。

仏教と一言に言っても、数多くの部派や宗派がありますが、本来お釈迦さまが説いた教えは、何かを崇めたり縋ったりする所謂いわゆる「宗教」的な物ではではなく「現世で如何に自ら覚るか」という物でした。

仏教思想の中でも、その部分を重点的に抜き出して使わせてもらっております。

だからと言って私が原始仏教派か?というと、そういうことでは無いのです。ただ便利だから使っているに過ぎません。

何か一つの思想に固執して妄信するのではなく、東西南北いろんな考えをガチャンコさせてます。

正しい正しくないは置いといて、役に立つならばなんでも使えばいいというプラグマティズム的な考えです。

その中でも仏教思想の使用頻度が比較的に高いというだけですね。

ニーチェの予言

「神は死んだ!」の言葉で有名な19世紀ドイツの哲学者ニーチェ。

ニーチェは「次の2世紀はニヒリズムの時代になる」と予言しました。

ニヒリズムとは、日本語に訳すと「虚無きょむ主義」となり「この世の根源は虚無(空っぽ)であり、神のような絶対的なものは存在しない」という主義です。


19世紀にヨーロッパでニヒリズムが蔓延し、無神論が人心を覆い尽くし、人々は無力感にさいなまれることになるのですが…

その話はまた今度にしましょう。


さて話を戻して…19世紀から後の2世紀とは、20世紀と、今現在我々が生きている21世紀です。

20世紀から現代にかけて、科学や物理学などの発展により、それまでは全てが神の御業みわざとされてきた、あらゆる自然現象のことわりも人の手で解明されてきました。

かつては天体も神々の住む世界と思われていたのに対し、現代ではそんな風に思う人は、まずいないでしょう。

ありとあらゆる事が化学的・物理的に説明できる時代で、多くの人が「この世に物理法則を超越した絶対的で全能なるものは存在しない」と、なんとなく認識しているのではないでしょうか。

占いや、祈りで経営方針を決める企業など存在しないでしょう。(もしそんな企業が存在したら、すみません)

現代社会生活から宗教は切り離され、宗教とは文化的側面が強くなっています。

およそ文明的な生活をしている人の中で、人智を超えた絶対的存在に頼って生きている人など、殆どいないでしょう。

まさに、ニーチェの予言は当たっていると言えます。

正義を作るものが悪

ニーチェの予言が当たっているとしても、かといって別に私は宗教を批判したり否定したい訳ではありません。

宗教も人生を豊かにする物である事に違いないのです。

しかし、私が好ましく思わないのは「自分が信じる物が正しい」と思い込み、それを他人に押し付け、それ以外を攻撃する輩です。

この時代において、「多様性」が理解できず、許容できず、自分の信じる物だけが正しいと、他人に押し付けたり、攻撃するような輩は「私たちは頭が悪くて、心が狭いんです」と自ら喧伝しているようなものです。

「こちらこそが正しい」という正義なんてものは、存在しない方が世の中は平和なのです。

あの世の理論はノーサンキュー

ニーチェの予言通り「この世に人智を超越した存在」など存在しないと今現在では多くの人が信じており、現代はまさにニヒリズムの時代であると言ってもいいのではないでしょうか。

つまり、霊魂などスピリチュアルな物なども全時代的なものとして葬り去ってしまうべきだと私は思います。

前置きの通りこの「週刊少年パンニャー」の趣旨は「今を生きる」です。

スピリチュアルで必ず持ち出される概念である「前世」や「死後の世界」などは人生にとってさほど重要ではありませんし、むしろ「今を生きる」障害と言ってもいいでしょう。

「前世があるなら来世も」「また生まれ変われる」という考えは自殺を助長し、命を軽んじる危険な考えです。

詳細は以前の記事を参照していただければと思うのですが…一応ここでもこれだけは言っておきます。

生まれ変わりがあったとしても、今の「この私」は理論上引き継げません。
生まれ変わった貴方は残念ながら別人となります。

今の「この私」は今の人生だけのものです

それでは何故、所謂いわゆる「霊能者」の方々はやたらと「前世」や「生まれ変わり」など声高に叫ぶのか…それには明確な答えがあります。

それは…

「金になるから」

ただそれだけです。

誰も見えない、証明できない「あの世の理論」をこねくり回すと、お金が出てくるのです。

しかし「今を生きる」のに「あの世の理論」は全く必要ありません。

おわりに

ということで、今回は「週刊少年パンニャー」の趣旨とスタンスについて改めて振り返り、おさらいしてきました。

このような姿勢でこれからも色々と「今を生きる智慧」をお伝えしていこうかと思います。

ではまた。

人生最高!人生楽勝!