イジメ問題について

2021年12月5日

はじめに

さて、『崇高な独り言』の投稿が続きます。

今更になりますが、当サイトのカテゴリーの説明させて頂きます。

当サイトのメインカテゴリーとして、いま現在『生きる智慧』と『崇高な独り言』の2つで展開しておりますが、棲み分けとしては以下のようになります。

生きる智慧

『生きる智慧』は人生に役立つ哲学であったり、思想であったりを私の見解(屁理屈)を交えて、「生きるのはそんなに難しい事では無く、こう言う考え方もありますよ」と、人生の迷いや悩みを解消し「今を生きる」考え方を提示するものであります。

崇高な独り言

『崇高な独り言』は、独り言と呼んで字の如く、世の中に対して私の思うことを淡々と語る、いわば随筆のようなものです。

崇高な…とありますが、これはご愛嬌という事で…

今回はイジメ問題に対して、私の独り言

という具合にですね、今回は「イジメ問題」について『崇高な独り言』を語っていきたいと思います。

度々、イジメによる悲しい結末をNEWS等で目にします。

イジメを苦にしての自殺…

コロナ禍の序章とも言える「県内最初の感染者を寄ってたかって叩き、死に追い込む」大人も子供も入り乱れる最低最悪なイジメもありましたし…

最近では中学生による刺殺事件の犯行動機が「イジメられていた」との供述があったりで(真相はわかりませんが)、「イジメ」という行いは、「良くない結果しか生まない」という事に疑いの余地はないでしょう。

それでもイジメは無くならない。

どうしてイジメは無くならないのでしょう。

「イジメ問題」は根が深く、「こうすればイジメは無くなる」と中々どうして、一概に言えるものでは無く、具体的な解決法というのは今後も出てこないと思います。

ですので〈解決法〉では無く、「イジメとは何なのか」「何故イジメが起こるのか」という事について私の思う所を書き出しながら考えてみようと、思う所存です。

イジメと一言に言っても色々とありますが、今回は「多数による個人へのイジメ」に焦点を絞って考えます。

では今回もよろしくお付き合いください。

イジメは本能的に仕方がない事?

どうして人は人をいじめるのか…それは我々人類の進化の過程とイジメとが密接的な関係あるから、とも言えます。

我々人類は太古より群れを成して狩猟を行い、集団生活を営んできました。

現代のように科学文明もない時代、人間一人の力は自然の脅威の前には無力です。

道具や武器も乏しく、ましてや銃火器など存在しません、辺りを見渡せば獰猛な肉食獣…これらに立ち向かい退け、時には捕食し、生き永らえるために力を合わせて狩りを行い、群れを成して衣食住を共にし、子を作り、子を守っていかなければなりません。

文字通り生き残る為、種の保存の為に集団行動は必然であったのです。

その為、集団行動から逸脱する者、輪に馴染めない異端者の存在は、種の存続を危うくする可能性がありました。

「狩りには参加せず、食料にだけありつく」…群れの中で、このような遺伝子を残し、ましてや増やすわけにはいけません。

そこで、我々の祖先は集団行動の出来ない個体を「群れから排除」することで、種の存続を保ってきたのです。

「群れからの排除」とは、個を集団で攻撃し群れから追放する、または殺害してしまう事です。

これは現代語に訳すと「イジメ」ですね。

我々人類という種は、種の保存の為「イジメ」を行い、現代まで生き永らえてきたと言えます。

つまり

「イジメ」とは、連綿と紡がれてきた種の記憶、遺伝子に組み込まれている物でもあります。

イジメが起こってしまうのは本能的に仕方がない事でもあるのです。

「仕方がない」は人間失格

いくら「本能的に仕方がない」とはいえ、イジメは許容されるものではありません。

最初に言っておきますが「イジメ」とは人間として恥ずべき行為です。

「本能的に仕方がない」からと言って倫理に反する行いをしていい理由はどこにもありません。

目に入る女性を片っ端から強姦して回る男がいたとしても「本能的に仕方がない」から許されるでしょうか?

飲食店で無銭飲食を繰り返す者がいても「本能的に仕方がない」から許されるのでしょうか?

現代では、種の保存の為に集団生活を送る必要はありません。

それらは狩猟採集民の時代で終わった事です。

「本能的に仕方がない」と言って倫理を逸脱する行いをする者は、現代人失格、人間失格です。

生理的な感情や欲望、その他諸々の本能を自制できてこそ人間です。

つまり、嬉々としてイジメを行うの人間は、ウホウホ言っている原始人と同じであるのです。

駄目なことを「どうして駄目か」分からないことが問題

「イジメ」は一般的にはいけない事とされています。

他にも、ゴミのポイ捨てや、列への割り込み、危険運転etc…

犯罪行為であるか否か、その境界が曖昧な事でも、一般的にはいけない事とされている事柄って結構あると思うのですが、割と平気でそれらをやってのける輩というのはいますが…

そういう連中は、それらの行いが「どうして駄目か」分かっていない事が問題です。

「どうして駄目か」分からないという事は、人として恥ずかしい事です。

ここで私が、世間一般で言われている「いけない事」一つひとつを取り上げて、どうして駄目なのか等いちいち説明しませんが、それらは少し考えればわかる事です。

そんな事が分からないという事が問題なのです。

イジメられる側にも原因はある?

これは度々あちらこちらで物議を醸す問題ですが「イジメられる側に原因はあるのか」という事ですが…

正直これはとても難しくデリケートな問題ですが、先ほどの「本能的に仕方がない」の理屈で言えば、集団行動に馴染めない、皆んなと同じ事ができない、集団から浮いた存在であるマイノリティー(少数派)がイジメの対象にはなりやすいかと思いますが…

だからと言ってイジメていい理由にはなりません。

もう一度言っておきますが、イジメを是とする人間は現代人失格の原始人です。

しかしながら、当人の行動によっては誰も意図せず結果としてイジメ的な状況は起こってしまう場合もあります。

「嫌がらせ太郎」はイジメられたのか

ではここでちょっと考察してみましょう。

誰にでも人の嫌がることをする人間がいたとします。

日々、人に嫌がらせすることが生き甲斐のどうしようもない少年、仮に「嫌がらせ大郎」としておきましょう。

「嫌がらせ太郎」は今日もみんなに嫌がらせをします、膝っカックンに始まり、靴を隠したり、髪を引っ張ったり…

「嫌がらせ太郎」は人に嫌がらせをする事で自己を認識し、嫌がる人の顔を見て、他人を認識していたのです。

しかし、当然のことながら、皆んなはそんな「嫌がらせ太郎」には、ほとほとうんざりしていました。

そこで誰かかが言いました。

『ヤツの嫌がらせに嫌がっても、ヤツを喜ばせ、増長させるだけだ!嫌がらせには無反応で対応しよう!』

全員で「嫌がらせ太郎」を無視する事に決めたのです。

人の嫌がる顔を見るのが大好きな「嫌がらせ太郎」でしたが、嫌がらせしても誰も嫌な顔一つしなくなり、それどころか普通に話しかけても誰一人返事もしてくれなくなりました。

くる日もくる日も誰一人「嫌がらせ太郎」には目もくれません。

アイデンティティーでありコミュニケーションツールでもあった『嫌がらせ』を失った「嫌がらせ太郎」は、まるで自分ひとりが世界から取り残された孤独感にさいなまれます。

完全に世界から孤立した「嫌がらせ太郎」は、人に話しかけることすら恐ろしくなり、引きこもって外に出てこなくなりました…

「嫌がらせ太郎」が外に出てこなくなり、皆んなは大喜びです。

さて、これは「嫌がらせ太郎」の身から出た錆とも言えますし、「嫌がらせ太郎」がマイノリティーとなった原因は「嫌がらせ太郎」当人にあると言えますが…これはイジメと言えるのかどうか…

非常に難しい

これは極端な例え話ですが、こう言うケースもあるのではないでしょうか。

『イジメが起きる原因はここにある!』と一括りに言えるものはありません。

イジメとは色んな要因と条件が重なって起こる結果です。

その結果としてのイジメも様々です。

誰しもイジメられる要因を内包している

異端者を「群れからの排除」する事が遺伝子に刻まれたイジメの本能でもあるとし、現代ではマイノリティーがイジメの対象となりやすいともしました。

「嫌がらせ太郎」のように時には自らの行動がマイノリティーとなる原因を作ってしまう場合もありますが…

自らの行動や意志も関係なく、何かが切っ掛けとなり、マイノリティーとなってしまう可能性は誰にでもあります。

  • 犬のフンを踏んでしまった
  • 大勢の前で失禁してしまった
  • 身内から犯罪者が出てしまった
  • コロナに罹ってしまった

下らない理由から、重い理由まで、自分の意思ではどうする事もできない理由で誰しもマイノリティーとなり得ます。

誰しもイジメられる要因を内包しているのです。

さて、ここで注目すべきは『誰しもイジメられる要因を内包している』とは『誰しもマイノリティーである』という事です。

それはもうマイノリティー(少数派)ではありません。

もっと大きな枠で捉えて俯瞰すると、集団から逸脱する異端者なんて一人もいない

という事です。

現代社会において「群れからの排除」されるべき人間は一人もいません。

合う合わないはあるけれども

イジメは良くありませんが、みんながみんな手に手をとってなんて事も不可能だと思います。

人には相性もありますから、性格的に好まない人物というのも人によってはいる事でしょう。

しかし「合わないから」と言って攻撃していい訳じゃ決してありません。

「合わない」人間とは極力関わらなければ良いだけの事です。

私は以前に脚本で「分かり合えなくても共存はできる!」という台詞を書きましたが…

なるほど、言い得て妙…流石私です。

そうです、お互いに理解できなくとも積極的に関わらなければ良いだけなのです。

そしてお互い都合のいい時だけ協力すればいいのです。

例えば、普段は一緒に遊ぶな仲ではなくとも、消しゴム忘れた時に「消しゴム貸してくれ」って言える間柄だけに留まり、それを発展させる必要も悪化させる必要もありません。

イジメの大人と子供

イジメと一言に言っても色々ありますが、まず分別があり社会の一員として世に出ている大人のイジメについては、これはもう問題外であると私は思います。

それらイジメを行なっている大人がいるとしたら(ネットなどの誹謗中傷も含め)はっきり言って社会のゴミです。

通報するなり何なり、法的処置を取ってきっちり制裁を与え、更生させるべき対象であると思います。

という事で、ここから先は、子供のイジメについてフィーチャーし、そこに我々大人はどう関わっていくべきかを考えて行きたいと思います。

「大人は子供のイジメに介入すべきか」という事もあると思いますが、私は積極的に介入すべきであると思います。

子供同士で解決すべき事もあるでしょうが、イジメは喧嘩とは違います。

子供では解決できないから、イジメ問題がこれだけ大きくなるのです。

子供を先導するのは大人の責任です。

大人とは親の事だけを指しているのではありません。

社会に携わる全ての大人です。

子供は小さな世界の住人

ここで、どの年齢層まで子供とするか迷いますが、とりあえず高校生くらいまでと設定して話を進めます。

子供の世界は狭い

子供とは狭い世界に生きています。

自分達が子供であった頃を思い出してください、自分の住む町内でも、物凄く広く感じたのではないでしょうか?

ちょっと隣町まで、大人の足ならせいぜい10分程度の場所でも子供には大冒険です。

私などはよく近所で迷子になっていました。

流石に中学生、高校生くらいなると、身体的感覚は大人に近づき、家の近所程度では迷子にならないでしょうが

学校までの道のりも、知った道ならば辿り着けますが、一本横道に逸れると、その先は外の世界、未知の世界となります。

だから迷子になると不安で立ちすくみ、どうしようも出来なくなるのです。


と、まず行動範囲の狭さを例えとして持ち出しましたが、これは精神面でも同じです。

世間を、社会を知らない子供の世界は狭いのです。

学校であり、塾であり、近所の公園であったりが世界の全てです。

子供のイジメとはその小さく、狭い世界で起こる事なのです。

狭い世界のイジメ

子供は狭い世界に生きているので、世の中のことを知りません。

身の回りの事が人生の全てであり、学生ならば家と学校を往復する生活が世界の端から端です。

人生経験も圧倒的に乏しく、世の清濁も知りません。

故に、物事の分別も倫理観も成長途上です。

子供同士で形成されるコミュティーにおいての取り決め、ルールは脆く、危うさを孕みます。

大人から「駄目」と言われていることも、「駄目」と言われているだけであって、それらがどうして駄目なのか肌で感じる事ができません。

ついつい、周囲に流されがちになり、大人から「駄目」と言われている事もその時のその時の流れで平気で破ってしまいます。

やって良い事と駄目な事の境界線が極めて曖昧なのです。

一般的には「非」とされる事も、自分達の狭い世界の中において、何かの拍子で一旦「是」となってしまえば、もう止まる事を知らないのです。

良し悪しの区別ができず、加減も知らないので、一旦イジメの堰が切られてしまうと、濁流に飲まれるが如く、どんどんエスカレートしてしまい、止まる所も分からなくなってしまいます。

大人は逃げ道

狭い世界で起きるイジメの厄介なところは、傍目に(大人から)見ると些細な事に見えても、当人達にとっては死活問題であり、逃げ道もありません。

逃げ道がない故に悲しい結末が訪れたり、凄惨な事件が起こったりする場合があります。

大人であれば、自分の身に危機を感じれば自分の意思で転職する、引っ越しする、警察に相談するなどの選択、逃げ道がありますが、子供にはそれが見えません。

狭い世界の子供達の視界は常に袋小路です。

我々大人の役割は子供に「逃げ道を作ってあげる」「逃げ道を示してあげる」、そして大人自身が「逃げ道になってあげる」事であると思うのです。

その為に普段から子供の様子に目を掛け、子供の目線になって理解してあげる事も必要であり、いざとなれば無理矢理にでも逃してあげる必要もあります。

「どうして分かってくれないの!?」戦争

「我々大人の役割は〜」などと言っても、実際に子供の事を理解する事も、理解させることも中々困難ですよね。

「汚い大人にゃなりたくねぇ!」70年代、80年代を生きた方ならなんとなくこの言葉がわかると思いますが、これは社会への不満をぶちまける「思春期の子供代表」のような言葉ですが、子供とは狭い世界に生きているが故に、世の中の仕組みも見えていません、見えていないが為に、大人の処世術、その手練手管が汚く写るのでしょうが…

大人からすれば、なんともケツの青い事です。

このように、思春期または反抗期の子供はその見識の狭さから「大人は分かってくれない!」と吠えますが、大人は経験上、大体のことは知っていますし「分かっている」からこそ「それは違うよ」と諭すのですが、子供は分からない物は分からないので、言うことを聞かない…

すると今度は大人が「どうして分かってくれないの!」と声を荒げ、『どうして分かってくれないの戦争』が勃発します。

そうなると、せっかく大人が逃げ道を提示してあげても、「それはできない!そんなの無理!」となってしまいます。

これでは水掛論になって何も解決しません


例えばですね、宇宙の彼方より遥か高次の存在がやってきて

遥か高次の存在

『お前達は鮭を食う事をやめないので滅ぼす事にした』

とか言われても…

え!!どうして!?何で!?嫌だ!断固抵抗する!!

と思うでしょう。

理解できない次元の話をされても、分からないのです。

なので「分かっている側」である大人が、子供の立場に降りて話す必要があります。

中々骨が折れる事と思いますが

子供の小さく狭い世界は社会の縮図

さて、ここまで私は大人は子供のイジメ問題に積極的に介入すべし!と言う立場で物を言ってきましたが、それと言うのも全ての責任は我々大人にあるからです。

子供の小さく狭い世界は、社会の縮図とも言えます。

日常の大人達の言動、TVやネットで見る大人社会を模範して、子供達の小さく狭い世界は作られます。

つまり、子供のイジメ問題は大人社会が引き起こしていると言っても過言ではありません。

我々バカな大人が常日頃、弱者を罵倒し、欺き、ネットで誹謗中傷などバカな事をやっているから、子供の世界に悪影響を及ぼしているのです。

教育委員会などが「イジメを無くす為に」とか様々な愚策を弄しても、子供達の世界からイジメ問題を根絶することは出来ません。

「イジメは子供達の間で起こること」と思っている内はどうしようありません。

子供達の世界から本当に「イジメ問題」を排除したいのであれば

我々、大人こそが人と人の付き合い、社会に対して自分の言動がどのような影響を及ぼすかをちゃんと見直す事から始めなければいけないのではないでしょうか?

終わりに

と、いつになく長々と私の「イジメ問題」に関する見解を、好き勝手に書き連ねてきました…書いている私自身も途中で訳が分からなくなりそうでしたが…

「イジメ問題に関するNEWSなどはできる限りお目にかかりたくない」

そういう想いで書きました。

では長くなりましたので、これにて失礼させて頂きます。