命の剪定

2021年11月22日

何かと忙しい現代社会、多くの人が生活や仕事に追われ、不毛な時を消化するだけの日々を過ごしているのではないでしょうか…それでも我々は生きています。

今この瞬間に多くの命が生まれたり消えたりしています。

  • 生活に困窮しながらも必死に生きる人
  • 順風満帆に人生を謳歌していたが、突然の事故で命を失う人
  • その辺で寝ている猫
  • 牧場に生まれた牛に食べられる牧草
  • 畑の大根は、今やおでんとなった
  • 体外に排出され死滅していく大腸菌

毎日どこかで誰かが、生まれ、生きたり死んだりしています。

それぞれ何が違うのでしょう?それぞれの命に差はあるのでしょうか?

なぜ我々は今こうして生きているのか…

生まれてきた理由や、生きる目的、命の価値を私なりの屁理屈で探っていきたいと思います。

この記事を読む前に

この記事の内容は仏教思想である「縁起」の論理を基に考察しております。

縁起えんぎ」を解説した記事がありますので、後でも先でも構いませんので、こちらをご一読ください。

生まれてきた理由

よくドラマなどで「勝手に産んでおいて!…」とか反抗期のお子さんが親をそしる場面など目にしますが、私からすれば「生まれてきておいて文句言うな」と思っちゃいます。

それさておき、何故なぜ人は生まれてくるのでしょうか?

何故なぜ」かと問われれば「縁起えんぎだから」で済む話ですが、それでは何事にも意味を求めないと気が済まないキッズや、心は永遠のキッズ達は納得しないであろうかと思いますので、私なりの解釈を述べさせて頂きます。

さて、「何故生まれてきたのか」それはひとえに、お父さんとお母さんが出会ったからです。

さらにはお父さんとお母さんのお父さんとお母さんが出会ったからで、もっと言えばお父さんとお母さんのお父さんとお母さんのお父さんとお母さんが出会い、お父さんとお母さんのお父…

この辺にしておきます。

大雑把に言ってしまえば、生まれてきた理由なんて「特にない」です。

味気のない答えとなってしまいましたが、「この世の全ては縁起えんぎで成り立っている」縁起えんぎの論理で言い換えれば「この世の全てが生まれてきた理由である」とも言えます。

【人生の目的】輪廻転生、カルマの罠

生まれてきた理由などは特に無い(全てが理由であるとも)としましたが、では生きる意味はどうでしょう?

生まれてきたは良いものの何故生きるのか?人生に目的はあるのか、若い頃にやりたい事が見つからず進路に悩んだ人は、なんとなくそんな事も考えたのでは無いでしょうか?私もその一人でした。

人には人生でやり遂げなればならない目的があるのか…そして何かしらのごう(カルマ)を背負って生まれてきたのか。

結論からいえば、これも「特に無い」

と言いたいところでもありますが、こう言い換えましょう…

「生きることが生きる目的」です

よく創作などで扱われる転生や、生まれ変わりの概念の影響を受け「人は何かしら前世からの目的を引き継いでいる」と思われたり「人は何かしら人生でやり遂げる使命がある」と思われがちではあると思いますが…

では、その"生まれ変わり”思想の輪廻転生りんねてんしょうとは如何なるものであるのか見ていきましょう。

輪廻転生りんねてんしょう

ちまたでは「転生もの」が流行ったりもしましたし、多くの人は「人は死んだらまた生まれ変わる」と言う輪廻転生の概念を知っているし、信じているのでは無いでしょうか…

しかし、仏教の祖であるお釈迦様はこの輪廻の思想は認めていませんでした。

お釈迦様は弟子たちから「人は死んだらどうなりますか?」「輪廻はありますか?」と質問される度に「そんな事より修行しなさい、修行して自らさとりなさい」としか答えなかったそうです。

確かに「縁起えんぎによって諸行無常しょぎょうむじょうであり諸法無我しょほうむがである、この世の構造」この縁起えんぎの論理では、輪廻思想は矛盾しています。

話を戻して、ではその輪廻転生の思想はどこからやってきたと言えば、仏教以前の古代インドに根付いていた思想です。

現代社会の日本に暮らしている方々は【輪廻転生=生まれ変わり】とは、「死んでもまた生き返れる」だったり、「生まれ変わったら一緒になろうね」等の安っぽい台詞のような比較的ポジティブなものとして捉えているのでは無いでしょうか。

しかし本家本元古代インドの人たちにとって輪廻とは忌まわしいものでした。

古代インドでは誰もが「二度と生まれ変わりたくない!」だったのです。

何故かと言えば「生まれてくること=苦しみ」と言うのが根底あります。

現代のように文明も発達して無いですし、気候や自然環境にも文字通り裸一貫で立ち向かわねばならず、飢饉や疫病にさいなまれ、この世に生まれ、生きるという事は苦しみで、この世こそまさに地獄だったのです。

だから当時の人たちにとって輪廻(サンサーラ)とは”苦しみの輪”と言えます。その輪廻の輪から抜け出し(これを解脱げだつと言います)もう二度とこの世に生まれることのない永遠の安楽涅槃ねはんに至ることが魂の救済であると考えていました。

現代日本のように、前前前世から君を探している余裕なんてなかったのです。

なぜ当時の人達は苦しくても前向きに生きようとはせずに「如何にして輪廻を抜け出すか」だけを考えて生きていたのか…そこには巧妙に仕掛けられた罠がありました。

ごう(カルマ)の罠とカースト制度

輪廻を巡り苦しみ続けるのは、前世からの罪「ごう(カルマ)」を背負っているからだとされました。

カルマをその人生で精算しない限り、輪廻の輪を永遠に巡り続ける、生まれ変わり続けると信じられてきたのです。

さて、ここで満を辞して悪名高い「カースト制度」の登場です。

改めて説明する必要もないかと思いますが、カーストとは階級の差です。階級の低いカーストに生まれると、人として扱われもしませんでした。

何故カルマの話からカーストへ飛んだかといえば、このカルマこそカーストを決めるとされていたからです。

より重い前世の罪「カルマ」を背負った者は、より低いカーストに生まれるとされ

「奴隷として生まれたのは、お前のカルマが悪いからだ!奴隷として人生を捧げれば次は庶民くらいにはなれるんじゃねーの、多分ね!」と言うなんとも壮絶なパワハラ、いや、人生ハラスメントだったのです。

このカースト制度を作り出したのは、その最上階層である「バラモン」です。

このバラモンとなりカースト制度を作ったのは実は古代インドの原住民族ではなく、紀元前1500年頃、中央アジアからインドに侵攻してきた「アーリア人」です。

「アーリア」とは「高貴な」という意味の誇称で、アーリア人という民族がいたのではありません。民族的には「インド・ヨーロッパ語族」と言います。

インドの原住民族は黄色人種でしたが、アーリア人は白人種です。

「カースト」とは実はポルトガル語で「血統」を意味しますが、インド現地ではカースト制度のことを「ヴァルナ」と呼び、意味は「色」です。

はい、カルマがどうとか以前に、肌の色で差別されていたのです。

バラモンとは司祭階級ですが、王族である「クシャトリア」は第二階級なので、王族より司祭のほうが身分が上になります…

なぜ民衆の上に立つ王族より、司祭が上になるのか…

ヒント

司祭は神と交信できる唯一の存在とされてきました。

そうです、司祭は神を通じ、人のカルマを、カーストを決めることができたのです。

「見えます、見えます…お前、めっちゃ悪いカルマ背負っとるやんけ!お前奴隷な!」って具合です。実際は生まれてから決まるのではなく、どこに(家系)生まれるかで決まりますが…

奴隷として生まれた者は、奴隷として人生を終えます。

身分に合わない行いもタブーですし、下手に死んだらごう(カルマ)も精算出来ずに、また輪廻をめぐり再び奴隷として生まれてくるので、自死の選択もありません。

ただただ粛々と奴隷として働くのみです…

現代日本に生きる我々の価値観からすれば理解に苦しみます。

「そんなのおかしい!」って思いますよね。

つまり、ごう(カルマ)なんてものは、支配者層が都合よく民衆を支配する為に作り出したものです。

かつてのローマカトリックの行った免罪符も似たようなものですね。

中世末期、ローマ・カトリック教会は財政が苦しくなると「人は生まれながらにして罪人である」とし「この免罪符を買えばその罪も消える」と免罪符を市民に売りつけ収入を得てました。現在のオカルト商法と同じですね。

これらの行為が教会の腐敗とし、抗議(プロテスト)する者達が現れ、後のプロテスタント誕生のきっかけになりました。

涅槃への切符を担保にし、輪廻転生やごうなどの仕組みで人心を扇動し、民衆を思うまま操ってきたのです。

これが輪廻転生のカラクリです。

人は生まれながらに背負っている罪などありません。

「転生もの」などと称したものがピックアップされ、安易に「死んでもまた生まれ変わることができる」と考えてしまうのは、とても危ういことです。来世があろうがなかろうか、まずは今この人生を懸命に生きるべきです。

人生には目的もない

はい、先までは生まれながら背負う罪などないとしました。

では、人は何を持って生まれてくるのか…

これも、ありません。

何かの目的あって生まれてくる人も存在しません。

これは「生まれ変わり」は、あるのか無いのかと言う水掛け論に発展しそうですが、仮に「ある」とした場合でも、この世は縁起えんぎで成り立っているから、全てのものが影響し合います。

生まれ変わったA君

果たして生まれ変わりは、あるのか無いのか、ひとまず置いておき、縁起えんぎの論理で生まれ変わりを考察してみましょう。

A君が死んで、生まれ変わってA君’になったとします。

前提として諸行無常しょぎょうむじょう諸法無我しょほうむががあります。これによって永遠不変であるものも無く、繋がりから独立した自己も無いとなりますから、A君の人格は引き継げません、「A君であった何か」がA君’として生まれ変わります。

当然両親はA君であった時とは違いますし、家も違います、友達も違いますし、諸々の環境も違います、それら全てが影響しあってA君’を作り上げていきます。

恐らく性格的にも全く違う結果になりますし、A君が「」とした事も、A君’は「」とする事もあるでしょう。

さて、出来上がったA君’はA君であると言えるでしょうか…

そもそもA君’がA君であった必要性はあるのでしょうか?

と言う具合に「人生には、持って生まれた目的もありませんよ」っていう屁理屈です。

生きることこそ人生の目的であり、原則として責任である

さて、生まれてくる理由もなく、目的も無いとしたら何故生きるのか。

それは、先にも述べた通り、生きているから生きるのです。

細菌などの微生物、犬や猫や草木、数多あまたの動植物や我々人間は、今こうしてこの時に、同時に生命活動をしています。

そこに何かしらの理由が必要でしょうか?

理由が必要な理由はそれぞれの主観でしか無いでしょう。

生きているから生きるだけなのです。

「生きる」と言うことは、生きているの者の原則として責任である

と私は考えます。

「生きるのが辛い人だっている!」と言う方もいるかもしれませんが…

「辛かったら逃げてもいいよ」は分かるのですが

「辛かったら死んでもいいよ」なんて言えちゃう社会ってちょっとおかしいと思いませんか?

命の剪定せんてい。命の価値とは

ここまで色々と語ってきましたが、いよいよ本題である「命の価値とは?命に差はあるのか?」に迫ります。

大前提として全ての命は尊い!と、同時に全ての命は無価値である

「命の重さ」なんて言葉がありますが、そもそも命に重さなんてありません。

「こっちの方が重くて、こっちの方が少し軽い」みたいに比べるべきものでは無いからです。

大前提として「全ての命は等しく尊い」のです。しかし、同時に「全ての命は等しく無価値である」とも言えます。

命の価値は主観で錯覚

「全ての命は等しく尊い」と言いながら「全ての命は等しく無価値」であると私は述べましたが、どういう事かといえば…

菜食主義者から見れば肉食する人間は憎いでしょうし殺戮者にも映るでしょう。

しかし、菜食主義者といえど野菜に命は無いとして食すとなればそれはそれで人間のエゴでもあります。

この社会のそれぞれの主観が、その時その時で命を値踏みしています。

誰でも見知らぬ他人より、家族や親しい者の命の方が大切に感じるでしょう。

それは主観による錯覚であると言っておかねばならないでしょう。

良いも悪いもそれぞれの主観でしかないのです。

死は誰にでも平等に訪れますが、死に方や死の順番は公平ではありません。

命にそれぞれ根本的な価値があるとするなら、その価値が原因で死の順番が回ってきて、価値によって死に方が違うという事になります。

それはちょっとどうなの?

でしょう。

「誰でも、いつか必ず、何かしらの原因で死ぬ」だけであって、全ての命は今この瞬間に死の危機に曝されています。

だから「全ての命は等しく無価値」でもあるのです。

「主観による錯覚」と書きましたが、そうは言っても人間誰しも主観でしか物を観れません。自分が観ているのは「主観による錯覚である」と一応は認識しておくことで、「他人の錯覚」にも理解を示すことができるはずです。どうせ錯覚ならば、もっと大きな錯覚を引き起こして、より多くの命を愛しく感じられるといいですね。

命の新陳代謝

現状において、命は他の命を消費しなければ生きられません。

こればかりは、もうどうしようもありません。

食事における主義も関係ありません。

乳酸菌飲料を飲めば乳酸菌の命を消費しているのです。

菌だって命です。

菌や微生物は命で無いとするなら、それこそ命の値踏みであり、エゴを増長させるきっかけになります。

命の消費なくして命は成り立ちません。

それをどう噛み砕くか、どう飲み込むか…何が正しくて何が悪いのか、誰かを悪者にして吊し上げれば解決するものでもありません…

良い悪いは関係なく「これも縁起えんぎ」としてしまえばそれまでなのですが…

私はこのように考えています「命は新陳代謝」している。

ひとつひとつの命はもちろん大切ですが、あらゆる命は今この時に同時に生きていて、総体としての命がひとつに繋がっており、善や悪などの主観も取り払って、総体としての命が呼吸するが如く、生まれたり死んだりしているのが命なのでは無いかと。

そう思う次第です。

まとめ

と言う具合で今回も屁理屈を連ねました。

何かと「転生もの」が取り上げられたりするのは、みんな何かから逃げ出したい想いを内に抱えていて、それが世に反映されているのかもしれないですね。

しかし、生まれた理由もなければ、生きる目的もない、生きることこそ生きる目的なのです。

これは逆説的になりますが、意味があるから生きるのではなく、生きるからこそ生きる意味をつむいでいくのです。

借金がある、フラれた、うまく周りに馴染めない、学校がつまらない、仕事に行きたくないetc…

だからなんだ!?それがどうした!?生きてるぞ!!

何をやってもいいし、何から逃げてもいい、何を諦めてもいい…だって何にも決まってないんだから。

人生は常にニュートラルです。

あ、かといって悪いことしたら普通に捕まって裁かれちゃいますよ、当たり前ですが。

それではまた!良い人生を!