楽して生きる

2022年3月6日

様々な問題を孕む現代社会は、なにかと「生き辛い世の中だ」と思い悩む人も多いかと思います。

この世が生き辛く感じる"人生の悩み”とは大体以下の様な感じでしょうか…

  • 収入や日々の活計たつき、経済的な理由
  • 職場や友人らとの人間関係、色恋沙汰。
  • 過去のトラウマや将来への不安…実体のないものへの恐怖。

生きていく上で、悩みは尽きないかと思います。

しかしながら、「生き辛く感じる」人生の悩みなどは、その殆どが精神面に由来します。

例えば…「お金がなくて辛い」という悩みは、お金が無い事が辛いのではありません。

“お金が無ければ辛い”と思っている心の問題です。

とはいえ、こんな風に申しましても、今現在実際に悩み苦しんでいる方には中々腑に落ちない理屈だと思いますが。

というわけで今回は、それら悩みの本質に迫ります。

悩みや苦しみなどは、物事の考え方次第、捉え方次第で

瞬く間に吹き飛んでしまいます!

とまでは、言いませんが…

人生の見え方が変わり、悩みの本質を捉え、心がいくらかは軽くなるお話をしていこうかと思います。


今回のテーマは「楽して生きる」です。

悩みに身も心も蝕まれ、苦しみながら生きる必要はありません。

誰でもそれらを手放し、もっと楽して生きていくべきだと私は思います。

この「生きる」という事は、当サイトのメインテーマでもありますので、折に触れて過去の記事もご紹介していきますので、よろしければそれらもご一読頂けると幸いです。

それでは今回もよろしくお付き合いください。

この世は根本的に「苦」

突然ですが、この世は根本的に「苦」です。

???

どういうことかと言えば…

この世は根本的に苦しむ様に出来ている

ということです。

「楽して生きる」とか言っておきながら、のっけからアベコベじゃねぇか!?

とお思いでしょうが…ハイ、すみません。

ですが、これを分かっていないが為に“無駄に苦しんでいる”人がかなり多いと思うのですよ。

「この世は苦なるものである」

これはブッダ(お釈迦様)の教えです。

簡単に説明すると…

「苦」とは仏教的に「思うようにならない事、欲するものが手に入らない」という意味です。

どうでしょうか?

思い通りに出来ているでしょうか?

欲しいものは何でも手に入れているでしょうか?

そんな人は、まぁいないでしょう

この世は根本的に苦である=人生とは思い通りにいかないもの

こう表すと、何となく腑に落ちるのではないでしょうか。

これを分かっていないが為に

どうして思い通りにいかないんだ!Why!?何故!?ドウシテ!?

と、あらゆる事に“執着”して悩み、苦しみの輪から抜けられなくなるのです。

「楽して生きる」第一歩は、「この世は思い通りにはいかないものである」と気付き、受け入れる事です。

そうすれば無駄に苦しむ事は無くなるはずです。

おまけ・「どうして!?」の罠

余談になりますが、何か上手くいかない事があったとして、そんな場合に「どうして上手くいかない!」「何故出来ない!」みたいに「どうして」や「何故」と自分自身に問い質すのは、精神衛生的にあまり好ましくありません。

「どうして」や「何故」という問いは、過去の自分を否定する問いになるのです。

過去を否定し責める事で思考停止してしまい、良い答えも出て来なくなり、ネガティブな思考を堂々巡りする羽目になります。

何かにつまずいた場合、自分自身への建設的な問いかけは「どうしたら」です。

「"どうしたら”もっと上手くできるだろう」

「あの人と仲良くなるには"どうしたら”いいだろう」

このように、建設的なアイディアや解決方法を求める場合は「どうしたら」と問いかける事で、思考を前向きに働かせる事ができます。

「Why」ではなく「How」です。


ちなみに「苦」についてもっと詳細に説明している記事もございますので、こちらも併せてお読みください。

人生には根源的な意味など無い

こちらは度々当サイトでご紹介していますが、改めて述べておきます。

人生に意味などありません。

言い換えれば生まれ持った目的なんてものは存在しません。

こんな風に言うと、スピリチュアル界隈の人達はざわつくであろうと思いますが…私はスピリチュアルなどは現実逃避でしか無いと言う立場なので悪しからず…

なにかと、やれ前世は前前世は…のように「魂の連続性」をまことしやかにうそぶく自称霊能者みたいなのを目にしますが、そんなもんが何だって言うのでしょうか。

前世なんて、そんなもんが在ろうが無かろうが、大事なのは常に「今現在」「NOW」です。

過去は過ぎ去るだけで、現在に影響を及ぼす過去なんてありません。

おっと、やや熱くなり前振りが長くなりました

スピリチュアルについてはこちらで私見を述べております。

蛇足ですがIQの低い人の方がスピリチュアルにハマりやすい傾向にあるという研究もあります。

自分の頭で考える事を放棄し、運気や未来等よくわからない事は全部、守護霊様的な存在に丸投げしてしまうからでしょう。


さて、生まれてきた理由ですが、これは「縁起えんぎ」の理論で説明いたします。

仏教では、この世の全ては「繋がりで成り立って」おり、繋がりから独立して存在しているものは無いとします。

あるものと、あるものが繋がって一つの物体であり、事象であったりを生じたり、滅したりしているに過ぎない…これを「縁起えんぎ」と言います。

縁起とは「因縁生起いんねんしょうき」の略であり、

この世の事象は全て…

因(要因)+縁(諸条件)=生起(結果)」

という方程式によって成り立つということです。

少しわかりやすくするために、花の縁起を見てみましょう。

種(因*要因)+日光、土、水(縁*諸条件)=花(生起*結果)

という具合です。

これが縁起です。

ですから、何かから独立して存在するものは無いと言う事です。

カントの言う因果系列の原理、物事に先立つ存在で、不変で先天的な「アプリオリ」なものは存在しません。

全ては繋がりで成り立っています。

これは個人の命の意味においても同じです。

生きる意味をあえて定義するならば…因果関係から独立した根源的な意味などは存在せず、人生における様々な結びつきによって派生する、複合的なものと言えます。

有でもあり、無でもあり、条件次第で如何様にも変化する状態を仏教では「くう」と言います。

人生とは「空なるもの」です。

もし、人生に意味を求め「こうあるべき」と言う考えに固執し、疲弊してしまっている方がいるなら、こう考えてください…

生まれてきた理由なんて特にありません、しかし、言い換えれば「この世の全て」が生まれてきた理由であるとも言えるのです。

人生にノルマなどありません。誰もが何者にも縛られず、自由に生きる権利を持っています。

おまけ・人の性格も環境で変わる

個人の性格も生まれつき備わった物であり、アプリオリな物であると錯覚しますが…

心理学では人の性格は環境に左右されるとします。

付き合う人間、個人を取り巻く環境によって性格も変わってしまう…まさに「縁起」ですね。


↓命の価値について書かれた記事です。

過去の執着を手放す

当サイトでは度々「人生はそんなに大した事ない」や「人生には意味なんてない」みたいな事を述べていますが、そう言うと

いやいや、ふざけんな!私はこんなに沢山の辛い目に遭ってきた!人生とは茨の道だ!人生そんなに甘くない!

みたいに思う方もいらっしゃるかもしれません。

しかし、それは言い方は悪いかもしれませんが「過去の辛く苦しい経験にわざわざ自分で“執着”しているに過ぎない」と言えます。

先にも述べましたが、過去は過ぎ去るのみです…現在進行形で「今」に影響を及ぼす過去なんて存在しません。

これまでの人生において凄く苦労したとか、辛い思いをしたという方は、これも言い方が悪くて申し訳ないですが“たまたまその時そうなって、そう感じた”だけです。

過ぎ去ってしまった事には何の価値もありません。

「私はこんなに苦労してきたのだから、人生は苦労するものと決まっている」という方は、自分の辛く苦しい経験に執着し、〈人生=甘くない〉とレッテルを貼り、この先の未来もわざわざ進んで苦しみに行っているようなものです。

人生は根本的に甘くも辛くもありません。

とは言え、人間というのはネガティブな想念に執着してしまう生き物です。

これが人間の生存本能であるので、仕方が無い事でもあるのですが…

どういう事かと言えば、現代のように文明も拓けていない時代、我々人類が狩猟採集民であった頃は日常の一分一秒が命の危険に晒されていました。

一歩外に出れば肉食獣が闊歩し、毒がある食べ物の見分けも完全には出来ません。

「あそで肉食獣に遭遇し、命からがら逃げてきた。あそこは恐ろしい所だ。近づかない様にしよう」

「このキノコを食べて仲間が何人も死んでしまった。これは食べちゃダメだ」

このように、生き残る為には“負の記憶”を長期的且つ、強烈に記憶に刻んでおく必要があったのです。

現代においてはそうそう必要のない機能ですが、この狩猟採集民だったか頃から我々の脳の基本的構造は進化していません。

であるから「ネガティブな記憶=生存に重要な記憶」と判断してしまい、いつまでも思い悩んでしまう事になるのです。

ネガティブな記憶がいつまでも強烈に残り続けるのは、人間の生存本能的に仕方が無い事と言えます。

仕方が無いとはいえ、過去への執着から「人生とは辛いものである」と思い込んでしまっていては、この先の人生も辛いものになってしまいかねません。

過去は過去…過ぎ去ったことが「今」に影響を与える事はできない。今現在、生存に関わりの無いネガティブな感情はそもそも必要ない。と、しっかり認識しましょう。

煩悩であれ、過去のネガティブな記憶であれ"執着”することで悩みや、苦しみを生み出してしまいます。

おまけ・トラウマ克服「記憶改ざん」

どうしても忘れられず、自身を苦しめる嫌な記憶、所謂いわゆる「トラウマ」ですが、これは不意にフラッシュバックを起こす事で拒否反応を示してしまい、ネガティブな感情をより強固なものにしてしまいます。

人間の記憶というのは実はかなり曖昧で、良かったことは、より良く…悪かったことは、より悪く…都合よく事実より誇張して記憶しています。

この曖昧さと、誇張というのがポイントです。

誇張された悪い記憶を正しく認識することで「あれ?今までかなり盛って記憶してたな」と不快感や嫌悪感を減少する事が出来、さらに言えば都合よく認識を変えることで「そんなこともあったっけ?」と記憶を改ざんしてしまう事もできます。

悪い記憶は「思い出したくも無い」と忌避きひし遠ざけてしまうが故に、記憶の方から不意にフラッシュバックしてきた時に大ダメージを受けてしまいます。

悪い記憶の認識を変えたいのならば、悪い記憶を遠ざけるのではなく、悪い記憶を自ら迎えに行く必要があります。

心の準備をして、悪い記憶を冷静に迎え、落ち着いて対面する事で、誇張された悪い記憶の化けの皮を剥がし、「そんなに大した事なかった」「もう終わったことだ」と、より健全な方向へ認識を変える事ができるのです。

という心理テクニックの一例でした。


↓煩悩と執着について書かれた記事です。

人生、割とどうにでもなる

人生のあれこれに悩み、追い詰められ、思い詰めてしまっている人は、きっと出口の見えない袋小路に追い込まれたような心境になるのでは無いでしょうか。

しかし、これだけは覚えておくと良いです…人生、割とどうにでもなります。

もうどうにもならない!人生詰んだ!!

と思ってしまうのは視野が狭まり、周囲を見渡すことができなくなっているからです。

そうなるには理由があります。

人間は肉体的にも精神的にも強いストレスに追い詰められると「闘争逃走反応」のスイッチが入ってしまうからです。

この「闘争逃走反応」とは、かつての我々の祖先が生命の危機に瀕した際、何としても生き残る為に何代にも渡って獲得してきた脳の機能です。

つまり、大型の肉食獣に出くわした場合など、生き残る為に取るべき行動は「戦う」か「逃げる」かのどちらかという事になり、己の存在全てをこの「闘争or逃走」の二択に賭け、他のことは一切は考えないように、脳が自動でスイッチを入れてしまう様に人類は進化してきたのです。

生存する為に、余計な事を考えないようIQを強制的に下げ、心臓の鼓動は早まり筋肉に血液を送り、選択を迫ります…

さぁ「闘争」か!?「逃走」か!?…どっち!?

という具合にですね、人間はストレスによって極限状態に陥るとIQがガクンと下がり、「闘争逃走」以外の事は考えられなくなっているのです。

我々現代人もこの「闘争逃走反応」をバッチリ受け継いでおり、極度に緊張する場面や、追い詰められた場合など、周囲が見えなくなって、考えが巡らなくなるのはこの為です。

現代においては、戦うべき相手も逃げるべき相手も存在しませんが、強いストレスがトリガーとなって「闘争逃走反応」が起きてしまい、脳がフリーズしてしまうのです。

さて、何が言いたいかというと…

追い詰められて「もうお終いだ」みたいな考えに陥るのは、「闘争逃走反応」によってIQが下がり、周りが見えなくなっているだけだという事です。

「闘争逃走反応」は現代においては言わば、現実から隔離された独房に幽閉されている様な状態です。

まずは「闘争逃走反応」のスイッチを切り、現実に帰ってくる事が最優先です。

その為の魔法の言葉を授けましょう。

人生、割とどうにでもなる

くどい様ですが、これを覚えておいてください。

どうにもならない事なんてありません。

「闘争逃走反応」によってIQが下がり「どうにもならない」考えしか見えないだけです。

お金か、人間関係か…個人が抱える悩みはそれぞれあるかとは思いますが、個別に対処する方法は違えど、まずは「人生、割とどうにでもなる」と思うことで「闘争逃走反応」から抜け出しましょう。

必ず視界が拓け、新たな選択肢が見えてきます。

お金なんて無くてもどうにでもなります。

恋人なんていなくてもどうにでもなります。

人生に「〇〇でなければならない」事なんてありません。

生きる事こそ人生です。その他諸々はただのオプションです。

おまけ・スマホ依存で引き起こる「闘争逃走反応」

人間の脳は情報化社会に合わせて進化している訳ではなく、基本的な脳の構造は狩猟採集民であった頃と変わりません。

生存に必要のない過度な情報の詰め込みは脳を簡単にバグらせてしまいます。

そこへきてスマホは情報の大洪水と言えます。

ただぼんやり、暇だからと無作為にスマホをいじっている時に入ってくる情報は、脳のゴミとなり、脳にとって大ストレスです。

無作為で過度なスマホの使用によって、脳は情報の大洪水に晒され、非常に強いストレス状態に陥ります。

その結果「闘争逃走反応」が引き起こります。

「闘争逃走反応」が起こると、脳は記憶や情動の処理を後回しにします。

それ故にスマホ依存に陥った人間は物覚えが悪くなったり、怒りっぽくなったりしてしまうのです。

反応をコントロールする

我々は目の前の事に五感と感情を持って随時反応しながら生きています。

どういうこと?

つまり、赤い花を見たら「赤い花だ、綺麗だ、良い匂いがする」と反応したり、誰かに突然罵倒されれば「何だこのやろー!」と反応したり…という具合ですね。

まぁ、普通の事ですね…

で、この反応を我々は普段、無意識にしてしまっているのではないでしょうか?

良いことがあれば喜び、嫌な事があれば怒り…普通はそんなもんですよね。

反応とは湧き上がる感情、思考の反射行動です。

湧き上がる感情や、思考をコントロールすることは出来ませんが"反応という行動”をコントロールする事によって無駄ないさかいを回避し、感情を掻き乱される事も無くなり「楽して生きる」事が出来ます。

例えば…

何気ない相手の言葉を「嫌味を言われた」と早とちりして、激昂してしまい、口論に発展し、殴り合い、果ては絶縁状態に…なんて事もあり得る訳ですが…

そんなのとても面倒臭いです

突発的に過敏に反応してしまうことは、あまり良くないと分かるのではないでしょうか。

ですから反応をコントロールしましょう。

自然に湧き上がる感情をコントロールする事は無理です。感情や思考を止めようと思っても止められません。

では、どうすればいいか…実は結構簡単です。

反応を一度止めれば良いのです。

目の前の事、例えば相手に何か言われた時は、まずはその言葉を受け止めるだけにとどめ、反射的にリアクションを返すのを一旦止めるのです。

言葉なら、一度受け止めて、その言葉の意味、相手の意図を吟味してから反応すれば良いのです。

かといって、一言何かを言われたら一時間も待ってから返事する…という事ではなく、一度しっかりと受け止めて、一瞬の間を置いてから反応する癖をつけると良いです。

この一瞬の間が、思考をスムーズにかつ柔軟にし、適切な反応が出来るようになるのです。

これを仏教では「止観しかん」なんて言ったりしますが、心理学では「反応柔軟性」と言います。

我々はどんな事にでも、怒りや憂いその他諸々の感情が湧き上がってきてしまうのですが、それはもうどうしようも無い、止められない…しかし、反応という行動をコントロールする事によって、受け流すことは出来るのです。

怒りの感情が芽生えるのは仕方がないこと、しかしブッダ(お釈迦様)は言いました…

水面に字を書くが如く

つまり、怒りの反応が芽生えても、次の瞬間には手放して、受け流してしまえばいい。という事です。

「感情=正しい」ではありません。感情と行動を切り離し、感情という妄想にも執着しないということが大切です。

終わりに〜能動的に「楽する」〜

さて今回は「楽して生きる」というテーマでお届けしてきましたが、冒頭でも述べたように「生きる」という当サイトのメインテーマと被る事もあって、他の記事でも触れた内容と似通ってしまった部分もありますが、それぞれ違う角度、違う密度、違う深度で書き分けしているつもりではあります。

で、今回の「楽して生きる」は肩肘張らずに力を抜いて、人生とは捉え方次第、考え方次第で如何様にも楽に生きれますよ…という事に焦点を当ててきましたが…

これは、

人生なんてぬるま湯だから楽勝よ!

という、よくあるポジティブシンキングのように「ツイてる!ツイてる!」と唱えるだけで幸運になれる…のような馬鹿みたいな受動的な事ではなく、自らの考え、物事の見方を変えていく事によって能動的に「楽"して”」生きていきましょうよ。

という事です。

幸運も楽も、自ら進んで掴みにいくものです。

それでは今回は以上となります。

ではまた!良い人生を!