突き進め!煩悩!
今回は「煩悩」と「アイデンティティー」についてお話していこうと思います。
煩悩とは?
煩悩とは、よく「欲」みたいなニュアンスの捉え方をされると思いますが、ちょっと違います。
煩悩とは即ち、この世のアレやコレに色を着けて見るという事です。
はて?どういう事かと言えば…
世の中のあらゆる事に価値を見出す事が煩悩です。
何か食べて美味しいと感じる事も、花を見たり音楽を聞いたりして、美しいと思う事も、スポーツを楽しむ事も、大好きなあの子の笑顔を見て愛しいと思う事も、全て煩悩となります。
美しいと思うものも、それは一時の事に過ぎず、花も枯れるし美女も老いる…
全ては移ろい行く「諸行無常」であり、一時的な事象に心奪われる事(煩悩)は、主観によって描き出している幻想でしかなく「この世をあるがままに観る」妨げになる、とされています。
つまりただ生きている、ということ以外は全て煩悩となります。
煩悩は断たなくてもいい
「煩悩を断て」とか台詞で聞くように、煩悩が悪い事のように捉えられていると思いますが
さて、どうでしょう?
皆さんは完全に煩悩を断つ事が出来るでしょうか?
煩悩を完全に断つと言う事は世界から色が消えて無くなるようなものです。
何を食べても、何を見ても、何も感じない…
そんな人生、滅茶苦茶つまらんですよね。
確かに極限まで煩悩を削ぎ落として修行している人もいるにはいますが、そんなのはやりたい人にやって頂ければいいのです。
我々俗世に生きる人間、みんながみんな、そんな事やってたら社会は機能しませんし、子孫も途絶え、人類は滅亡してしまいます。
我々俗人は煩悩を断つより、上手く付き合って行くべきものなのです。
煩悩は積極的に
私は煩悩って積極的に追っても良いと思います。
食を楽しんでもいい。
思い切りスポーツにのめり込んでもいい。
芸術で感性を磨くもいい。
好いた惚れたの恋愛の駆け引きを楽しむも良し。
思う存分、煩悩に突き進むんで良いと思います。
みんなが、思い切りやりたい事をやって楽しむ、それによって世の中が明るくなるなら、なんでもどんどん積極的に楽しむべきです。
しかし、ただ闇雲に煩悩に溺れる事は要注意です。
煩悩に囚われず、執着しない
積極的に煩悩に突き進めと言ったり、溺れるなと言ったり、なんなんだ?!
と、お思いでしょう。
私が言いたいのは「積極的に煩悩に取り組んでもいい、しかし囚われず、執着しない」という事です。
煩悩は積極的に打ち込んだ方が人生は明るく楽しいでしょう。
しかし、煩悩に囚われ、執着しすぎると人生は暗く惨めなものになってしまいます。
必死になって打ち込んだアレやコレも、時が来たら、未練なくあっさり手放す事が大切です。
例えば、自分が何かのプロスポーツ選手だったとします。
類稀なる大活躍をし、一躍スター選手へと駆け上がり、これからもずっと続く輝かしい未来が!と思っていた矢先に不慮の事故に合い、四肢のいずれかを失ってしまいます。
とても現役続行など出来ません。
このような状況で「よし、次いこ!次は何をしよう?」って思えるかどうかです。
普通の感覚からすれば、中々そんな風には気持ちを切り替えれないんじゃないかと思いますよね。
しかし、これが煩悩に執着しないと言う事です。
万事上手く行っている時は良いでしょう、しかし、一度挫折したり、断念せざるを得ない状況になった時、いつまでもその煩悩にしがみついていると、後は地獄です。
最後まで諦めずに、頑張って再び立ち上がる事も時には大事かもしれませんが、煩悩に執着するあまり、周りを見失い、全てが悪循環になり、思いもよらなかった暗い人生へ転落してしまうケースも決して少なくないかと思います。
フラれた相手の事をずっと想い続けても、ロクなことはないですよね。切り替えが肝心です。
煩悩もアイデンティティーも幻想
さて最初の方に煩悩は幻想だとしましたが、これは世界を「あるがまま」としたら確かに煩悩は己の主観でしかなく、幻想だということが何となく理解できるのではないでしょうか?
ちなみに「あるがままの世界」とは世界の存在すべてに一切の価値や意味を見い出さない、ただそれらがそこにあるからあるだけってことです。今あなたが観ている世界は、あなたの主観が描き出した世界に過ぎません。
そして「自分はこうあるべきだ」という人のアイデンティーは煩悩によって生み出されているとも言えます。
煩悩によって何かに(例えばテニス)にのめり込む
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生活の全てがテニスに直結する
⬇︎
テニス無くして自分は語れない…
という具合に煩悩がアイデンティティーを生み出し、アイデンティティーが己を縛り付けます。
やがて「俺はこれが無ければ俺じゃない」と煩悩とアイデンティティーへの執着はより強固になっていくばかりです。
しかし、煩悩が幻想ならアイデンティティーも幻想で然りです。
それをしっかりと理解しておく必要があります。
アイデンティティーの喪失は、かすり傷にもならない
「自分はこうあるべきだ!」という信念が何かによって打ち砕かれると、悲しい選択をしてしまう人もいるでしょう。
例えば、先程のプロスポーツ選手を例にすると、不慮の事故によって現役復帰が無理な状況になっても「プロスポーツ選手としての自分」から離れられずにいると、やがて自暴自棄となって…。
アイデンティティーの喪失は人によっては生きる意味すら見失わせます。
しかし、先ほども述べたようにアイデンティティーも幻想です。
そして以前の記事にも書きましたが「生きる意味」なんて元々ありません。
人生は常にニュートラルです。
アイデンティティーの喪失など、人生にとってはかすり傷にもなりません。
ひとつのアイデンティティーを失えば、また新たな煩悩を見つけて、新たなアイデンティティーを獲得すればいいだけなのです。
生きることが生きる意味です。
まとめ
という具合に今回は煩悩とアイデンティティーについての屁理屈でした。
- 煩悩は悪くない、というか社会生活に必要。
- 積極的に煩悩を追い求める。しかし、執着しない。
- アイデンティティーも幻想である事を理解する
何かに夢中になったり、熱中したりしたものをアッサリと切り捨てるような事は、理屈では分かっても、中々どうして簡単にできる事ではないですよね。
しかし、アイデンティティーより命の方が大切なのは言うまでもありません。
命無くしてアイデンティティーもありませんから。
煩悩は思い切りのめり込んでも良い、しかし執着しない!
たとえ何かを失ったとしても、失ったものばかり見ようとしてもどうしようもないのです。
目を向けるべき事は自分の周りにごまんとあります。
次から次へと煩悩へ突き進み、人生を謳歌しましょう。
それではまた!良い人生を!
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