自殺は殺人

2022年1月31日

なかなかセンセーショナルなタイトルとなってしまいましたが、今回は私が当ブログを始める理由の一つとして考えていた「自殺について思う事」「命とは?」についてです。


厚生労働省の統計によると日本の自殺者は年間およそ2万人前後…これは自殺に及び死に至った数です。

自殺を試みたものの死には至らなかったケースはその4倍ほどあると言います。

ですから実に年間8万人以上もの人が自ら命を絶とうと試み、実行しているという事になります。

加えて近年ではコロナ禍の影響で、若い方が自ら死を選ぶケースも増えているようです。

これを我々はどう受け止めるべきか…確実に言えることは、決して良い事ではないということです。

死生観は人それぞれでしょうが…「自殺は良く無いこと」という認識に間違いは無いと私は思います。

では一体何をどう持って良く無い事とするのか…例の如く、私なりに屁理屈を述べていこうと思います。


さて、タイトルの「自殺は殺人」についてですが、これは普通に捉えると「誰かが自殺に至ったのは、そこへ追い込んだ者による殺人であると」というようなニュアンスに解釈するでしょうが…違います。

それもそれで問題ですが、今回私が言いたいのは「自殺は、本人による本人の殺人行為である」です。

なぜそうなるのか、原則「自殺は良くないこと」を前提とした立場で見ていきましょう。

殺人とは強制的に繋がりを断ち切る事

以前もこのブログで述べて来た通り、人は、この世の全ては繋がりで成り立っています。

殺人とは呼んで字の如く、人を殺める事ですが…。

人を殺めるとは、その人本人をこの世から消し去るだけではなく、その人の繋がりも強制的に断ち切る行いです。

ちょっと分かりにくいかも知れませんが、以前も記事に書いたように人は一人では生きていません、望もうが拒もうが関係なく、一人の人間は個として存在しているのではなく、無数の人間との繋がりで成り立っています。

人が一人、この世から消えるという事は、その一人に繋がっている無数の繋がりも失われます。

ちょっと書き出してみると…。

ある一人の死

まず遺族がいます、人の死は遺族を悲しませます。

友人知人がいます、人の死は友人知人を悲しませます。

有名人ならファンがいます、人の死はファンを悲しませます。

勤め先があります、人の死は勤め先から人材を奪います。

家があります、人の死は家から住人を奪います。

大家がいます、人の死は大家から家賃を奪います。

蚊がいます、人の死は蚊から食事を奪います。

これらが数え切れないくらい続きます…。

という具合に、人一人の死は当人だけの事ではなく、同時に多くの繋がりが絶たれ、方々ほうぼうに影響を与える事であると分かるのでは無いでしょうか。

自然死でもその繋がりは失われることになりますが、これについては自然の摂理で、どうしようも無いことです。

しかし殺人とは、その繋がりを誰かが意図的に無理矢理断ち切る行いです。

繋がりを断ち切り、誰かにとって何かしらの存在であった人を永遠に失わせる行為。

これは断ち切る者が他人であっても、当の本人であっても同じであると私は考えます。

誰かの命を奪う事も、自分の命を奪う事も同じです。

これが「自殺は殺人」とする所以です。

殺人は赤信号

よく子供の頃に道徳の授業などで「どうして、人の嫌がることをしてはいけないのか」や「どうして、いじめはいけないのか」と言ったような、ある行いに対して「どうして?」と考える課題があったと記憶がある方は多いのでは無いでしょうか。

たった一つの答えが無いものに「どうして?」と様々な理由を相対化して考えることは良いことだと思います。

が、「どうして人を殺してはいけないのか」については考えるべき事ではありません。

駄目だから駄目なのであって、どうしてもクソもありません。

赤信号で止まらなければいけない事と同じです。

そこにいちいち理由を探っても仕方がない事で、駄目なものは駄目なのです。

「歩行者がいなかったから」と赤信号を無視して車を走らせる人間なんて駄目でしかないでしょう。

本来、他人も自分も殺してはいけないという事に「どうして?」の余地はありません。

という事なので「どうして生きるか」にシフトして考えていきましょう。

あなたの命はあなたが始めたことではない

「自分の命だから自分がどうしようが勝手でしょう」とか、自殺を「死ぬ権利」と捉える人がいるかと思いますが、違います。

如何なる理由があろうと、自分でも他人でも、人を殺していい権利などあってはなりません。

自分で始めたこと、例えば自分の意思で始めたゲームならいつどこでリセットしようが構わないと思いますが、人生はリセットしたらまた始まるものではありませんし、あなたの命はあなたの意思で始まったのではありません。

あなたの命、人生の始まりは「縁起えんぎ」によって始まったと言えます。


縁起えんぎ」とは仏教思想の言葉で、普段日常会話で使う「今日は縁起がいい」などとの意味とはちょっと異なります。

「この世の全ての事象は、いん(要因)とえん(条件)が絡み合い、生じたり、滅したりしている」というのが「縁起えんぎ」です。

…要するに先程も取り上げたように、全ての事象は繋がりで成り立っているとする考え方です。

縁起えんぎ」については以前詳細を記事にしたので、こちらでは割愛させて頂きますが…。


あなたの命が始まったのは、お父さんとお母さんが出会ったからです。

さらにはお父さんとお母さんのお父さんとお母さんが出会ったからで、もっと言えばお父さんとお母さんのお父さんとお母さんのお父さんとお母さんが出会い、お父さんとお母さんのお父…

という具合に、「あなたの命の始まり」はご両親の出会いから遡り、人類誕生、さらに生命の誕生、果ては宇宙の誕生まで繋がっています。

私は、個々の命は全て繋がり、一括りの「生命」として過去現在未来をつらぬき存在しており、全ての命は全ての命の共有財産であると考えます。

自分の命であろうと、他人の命であろうと尊さに違いはありません。

誰かの勝手で終わらせていいものではありません。

以前も書きましたが「命は命の消費無くして成り立たない」ものですが、「命の浪費」はあってはなりません。

↓「縁起」のロジックについて説明した記事です。

生きる責任は割と軽い

以前の記事で「生きることが人生の目的であり、原則としての責任である」と書きましたが…。

「責任」なんて書き方をすると、重く感じられるかもしれませんし「辛くても我慢して生きろ!」と言いたいわけじゃありません…生きる責任とは別にそんなに重く捉えるものでは無いです。

辛くても我慢して生きるより、辛かったら我慢しないで生きる方法を探せばいいだけなのです。

人生にはやり遂げなければいけない目標も、点数もありません。

ただただ、のらりくらりと生きていてもいいんじゃ無いでしょうか。

その程度の責任で十分です。

不安も重圧も感じる必要はありません。

人生の大体は幻想

どうしても生きていくのが辛い状況にあるという人もいるでしょう。

そういう方にとっては私の様な者の言葉はウザいかも知れませんが、では何故生きているのが辛いのか…問題はそこですね。

生きる事が辛いという事は、生きる希望の「裏返し」では無いでしょうか?

言い換えれば人生に期待しすぎた…とも。

望むものが手に入らなかった、フラれた、事業が上手くいかなかった…

思い描いていた人生が台無しになってしまった…躓いてしまった…

何かしらの失敗で人生に黒星がついてしまったように感じている人も割といるのではなかろうかと思います。

しかしながら、重複しますが人生には目的も目標もありません。

それらは誰かから植え付けられた、もしくは自らが抱いた幻想に過ぎません。

アイデンティティーも幻想です。

「こうじゃなきゃいけない!」ものは存在しません。

人生はいつだってフラットでニュートラルです。

数々の失敗も人生にはかすり傷にもなりゃしません。

こう言っちゃ身も蓋もありませんが、愛だの恋だのも一時的な幻想に酔っているに過ぎません。

この世は諸行無常、いつまでも変わらずに続くものなんて存在しません。

いつだって、仕事も男女関係も趣味もアレもコレも「これがダメなら次」で良いのでは無いでしょうか…。

↑アイデンティティーと煩悩に焦点を当てた記事です。

逃げるが勝ち

過労で自殺した人たちの半数以上がうつ病や精神疾患を発症していたとされています。

そこまで追い込まれてしまうと判断能力も著しく低下し、思考の方向転換も出来ないでしょうから…そうなる前に舵を取り直す必要があります。

仕事や人間関係に追い込まれる人は責任感が比較的に強い方が多いのでは無いでしょうか。

どうしても無責任に投げ出すことが出来ずに自分を追い込んでしまう。

しかし、人生とはもう少し図々しく生きても良いでしょう。

仕事も学校も借金も場合によっては家族からも、辛ければ逃げれば良いのです。

「それが出来ないから辛い」とも言われるかも知れませんが、先程も述べましたが全部自分が生み出している幻想に過ぎません。

出来ないと思い込んでいるだけで、自ら踏みとどまっている状態です。

きっと「自分が逃げたら、逃げられた側や周囲の関係者はどうなる、誰かに迷惑が掛かる」と考えられる優しい心をお持ちなんでしょうが…。

逃げられる側や関係者は、いつ誰に逃げられようが、割とどうにでもなります。

逃げられた側や周囲を気にする必要なんてこれっぽっちもありません。

追い詰められて自分を殺してしまうより、正々堂々と逃げるが勝ちなのです。

まとめ

さて、「鉄は熱いうちに打て」とばかりに指を走らせ、勢いだけで書き殴ってしまいましたが、まとめに入らせて頂きます。

今この時代に命の価値を改めて考えたく、大前提として「自殺は良くない事」として私なりの屁理屈を述べてきました。

自殺は自分自身による殺人行為であり、「人を殺してはいけない」という事に「どうして?」という問いの入る余地はない。

自分の命の始まりは、全ての命との繋がりによって始まっており、自分が始めたものではない。誰かが勝手に終わらせていいものではない。

生きる目的は生きる事であり、辛くても我慢してして生きるのではなく、苦しみは全てが幻想と知り、我慢しないで生きる方法を見つければよい。何から何度逃げようが構わない。

今回はコレまでに書いた記事を引用し、重複することが多かったのですが、それというのも元々今回の記事を書くために温めていた内容を散らして別々の記事にしていたので、このような事になりました。

このコロナ禍に入ってから、人の心の不安定さや暗さが気にかかり、連日のように報道されていた著名人の自死等にも感じた憤りが、このブログを始めるきっかけの一つとなりました…。

何事も「命あっての物種」です。

生きている意味は、生きているからこそ生まれます。

今後もそんな屁理屈を綴っていきたいと思います。

それではまた!良い人生を!