ACT02「アクセプタンス:受容と拡張」

2022年8月1日

さて今回はACTアクト編第2弾となります。

ACTアクト」とは…

ACTアクト」とは認知行動療法であり、「ACTアクト」を実践する事で、思考に振り回される事なく、心理的柔軟性=「今、ここに存在し、心を開き、大切なことをする」能力を以て、本当の幸福へ歩む活力を得ることが出来るとします。

実際に,うつ病や様々な精神疾患、統合失調症にも多大な効果を発揮すると言われています。

今回はACTにおける「アクセプタンス(受容)」と呼ばれるテクニックのご紹介になります。

日々、我々を脅かす不安や恐れ、不快な「ネガティブな思考」を拒否したり、消し去ろうとして、それらと闘ったりすることなく、適切な形で(脱フュージョンして)“受け入れ”てあげるのがアクセプタンス(受容)です。

「ネガティブな思考」は、その不快感から、どうにかしてそれらを退けようと足掻けば足掻くほどにより強固にフュージョン(同化)してしまい、どんどん深みにハマっていく事になりますが、「アクセプタンス(受容)」する事によって「ネガティブな思考」の暴走を抑え、思考に振り回される事なく、自分にとって本当に意義のある行動を選択する事ができるようになります。

更にそれら「ネガティブな思考」を「アクセプタンス(受容)」する為のスペースを自身の内側に作ってあげるのが「エキスパンション(拡張)」というテクニックになります。

では、この「アクセプタンス(受容)」と「エキスパンション(拡張)」とは如何なるものか、見ていきましょう。

さて、それではACT編02「アクセプタンス:受容と拡張」の始まりです!


前回までの内容を踏まえた上での解説になってきますので、まだそちらをご覧になっていない方は、是非お目通し頂ければ幸いです。

アクセプタンス(受容)とは

アクセプタンスとは、痛みを伴う感情や感覚に心を開いて受け入れてあげる事です。

つらい気持ちと闘ったり反抗したり、逃げ出したり圧倒される事なく、ただただ受け入れて、苦しむのを止める…という事です。

とはいえ、そんなの「言うは易し」じゃないか、痛みや辛さをそんな簡単に受け入れることなんて…

ですが、だからこそのテクニックなのです。

今回ご紹介するテクニックを理解すれば、不快な感情を受け入れることにそれほど抵抗を感じなくなるはずです。

このアクセプタンスですが、とても大切なポイントがありますので先に述べておきます。

不快な感情や感覚を受け入れる(受容)と言っても、それは痛みや辛さを好きになる事でも、求める事でもありませんし、我慢したり、諦めたり、負けを認める事でもなく、「人生を容認」する事なのです。歯を食いしばって忍耐するのではなく、現実に対して自分の心を完全に開き「今、ここ」の現実を認めてあげ、今この瞬間に自分の内側で起きている闘争から自信を解き放つ事なのです。

と、こんな風に書いても、まだ「何のこっちゃ」でしょうが…これからその意味を探っていきましょう。

人生に変化を起こす最も効果的な方法は、人生を完全に受容することから始まります。

どうして「受け入れる」のか

まずここで、そもそもどうして不快な感情を「受容」しなければいけないのか…という事について考えてみましょうか。

一言に感情や思考と言っても、そのひとつひとつの自身への影響は様々です。

不意に現れては消えていく「泡」のようなどうでもいい思考もありますし、四六時中頭を悩ませる不安や苦痛といった情動を揺さぶる、強烈な不快感を伴う思考もあります。

泡のように消えていく思考はそもそも気にもとめないでしょうし、文字通り「どうでもいいの」です。

しかし、強烈な不快感を伴う思考は、手放そうとも手放せるものではありません。

不快な思考を忘れようと、何か別の事に没頭し、一時的にやり過ごせたと思っても(回避行動)…必ず戻ってくるのです。

どうしてそうなるのかは、これまでにも述べてきましたが、もう一度後述します。

不快な「ネガティブ思考」は追いやる事も、消すことも出来ないから、適切に「脱フュージョン」して、自分の内側に留めて置く事が重要になります。

アクセプタンスするには、これを大前提として捉えておく必要があります。

不快な「ネガティブ思考」を消すことが出来ない理由

これまでも何度か説明してきましたが、再度ここでも簡単に説明しておきます。

どうして不快でしかない「ネガティブ思考」を消すことが出来ないのか…

これまでに何度も説明してきましたので、詳細は割愛させて頂きますが、一言で簡潔に申すなら…

それは遺伝子に刻まれた「生存本能」による「死なない為」の危険回避能力であるからです。

我々の祖先である狩猟採集民は「生き残る為に」ネガティブな思考を活用してきました。

恐怖や不安を感じる事で危険を察知し、それらを避けてきましたし、容姿や社会的地位や能力を他人と比較して焦ったりしてしまうのも、共同体(群れ)から追い出されない為の帰属意識の名残りです。

このように人間は「死なない為」に、ネガティブ思考を駆使して命の危機を回避してきたのです。

現代では殆ど必要の無い過剰な警戒心だと思うでしょうが、人間の脳基本構造は原始人の頃から変わっていません。

故に、我々現代人も簡単に「死なない為」のスイッチが入って、ネガティブ思考とフュージョンしてしまうのです。

そもそも、我々はネガティブ思考を「不快なだけで要らないもの、悪いもの」と決めてかかっていますが、思考自体に善し悪しはありません。

現在自身の置かれている環境に関係なく脳(=心)は危険を回避しようと生存本能を働かせます。

ネガティブ思考も生存本能が「死なない為に必要だ!」と判断して送ってくるの警告なのです。

ネガティブ思考を無視したり、跳ね除けたりして消す事が出来ない理由はここにあります。

本能をどうにかしようと思っても、出来ないのです。

我慢して押さえつけることは出来ても、それでは過度のストレスによって様々な弊害をもたらす事になるので本末転倒ですし、根本的に、自分を悩ます問題が消えて無くなることにはなりません。

我々にできることは、その脳(心)が送ってきた思考が、本当に今必要であるか否か、「役に立つか、役に立たないか」の判断をして、役に立つのであれば思考に従う、役立たないのであれば脱フュージョンしてアクセプタンスする。

と言う事なのです。

ありがたな迷惑なプレゼント

生存本能による警告(ネガティブ思考)を、視点を変えた喩えをするなら…


絶対に怒らせてはいけない相手がいるとします。

例えばメンヘラストーカー気質な人のような…はたまた恐妻…何でもいいですが…

その相手が、見返りを求めない100%純粋な好意(?)によってプレゼントをくれたとします。

しかし、そのプレゼントは自分の望む物ではなかった、むしろ見るのも嫌な物だったとして、その場で「いらねぇ!!」って捨てられるでしょうか?

目の前にいるのは絶対に怒らせてはいけない相手です。

そんな事をすれば、とてつも無い修羅場と化します。

下手したら刺されるかもしれない…

更にその相手は、後で捨ててもバレるようにGPSなどを仕込む用意周到ぶりです。

自分としては「めっちゃいらん…」とは思いつつも…

さて、どうしましょうか…

要るか要らないかは置いといて、即座に捨てられるものでは無いのですよね。

ひとまず「ありがとう!」と伝えて受け取り、家に帰ってからそっと仕舞っておくしか無いですね。


と言う感じです。

この「そっと仕舞っておく」場所を作るのが、次に説明する「エキスパンション(拡張)」です。

二つの自己

「エキスパンション(拡張)」に入る前に、大事なことを説明しなければなりません。

ACTでは「自己」と言うものを二つの概念で捉えます。

それが…

  • 思考する自己
  • 観察する自己

です。

この二つをざっくりと説明すると。

思考する自己

これは文字通り、アレコレと思考を生み出す自己です。

計画、判断、比較、想像、創造、視覚化、分析、記憶、空想、夢想などを担当し、平たくいえば「マインド(認知的能力)」となります。

もっと分かりやすく言うなれば「心」ですね。

観察する自己

「観察する自己」は「思考する自己」とは根本的に異なります。

観察する自己は、何かに“気づき”はしますが、考えはしません。観察する自己は、集中、注目、気づきなどを司ります。

舞台劇に例えるなら…

「思考する自己」は舞台上でアレコレと演技をする演者。

「観察する自己」はそれを客席から見ている観客。

と言う感じですが…

もう少し説明が必要ですね。

我々人間は思考する生き物なので、どうしても思考している自分(思考する自己)が自分であると認識しがちではありますが、以前も述べたように、我々が思考のままに生きていたら今頃は全員が刑務所か病院にいなければなりません。

「思考=自分」ではないと再度理解しておく必要があります。

物理空間で例えるなら

「思考する自己」と「観察する自己」の違いを物理空間での現象に喩えるなら…

例えば、野球をしているとします。

あなたはバッターで、バッターボックスに立っています。

相手ピッチャーが今まさに、ボールを投げようとしています…

あなたは、ピッチャーがどんなボールを投げてくるか、その一挙手一投足に注目しています。

いざボールが投げられ、自分の目の前に飛んでくるまでボールに集中し釘付けになっています。

この注目し、集中しているのが「観察する自己」の働きです。


では「思考する自己」は何をしているかといえば…

「めっちゃ速そうな球や」

「あ、汗で手が滑ってバットが飛んでいったらどうしよう」

「今日の晩御飯何食べよう」

と、埒もないことばかり考えているのが「思考する自己」です。


観察する自己が、埒もない思考に過剰な注意を向けてしまう事で、集中が阻害される場合もあります。

集中しなきゃ!集中しなきゃ!

とか考えていると、かえって集中できない事ってありますよね。

精神的に例えるなら

「思考する自己」と「観察する自己」の違いを精神的空間で喩えるなら…

先ほども引き合いに出しましたが、舞台劇を例としましょう。

この舞台は一風変わっており、演者それぞれが同じ舞台上で別々の劇を演じています。

舞台上には様々な演者が、それぞれ思い思いの劇を演じています。

「怒りの劇」を演じる者、「笑いの劇」を演じる者、「悲しみの劇」を演じる者、「訳のわからない劇」を演じる者…

この舞台の登場人物、演者を生み出しているのが「思考する自己」です。

そして、その舞台で繰り広げられる劇を観客席から観ているのが「観察する自己」です。


観察する自己はただただ舞台を眺めています。

それぞれ異なる劇を演じる演者たちを観ています。

その中でも目立たない劇、目立つ劇…様々な劇が目に入りますが、やはり目立つ劇、激しい劇を演じる演者に注目してしまいがちです。

この激しい劇を演じている演者こそが「ネガティブ思考」である場合が多いのです。

その激しい劇を演じる演者に見入ってしまい、他の演者が見えなくなると、その演者(思考)とフュージョンしていると言うことです。

ひとつの劇に没入してしまう事より、舞台全体を見渡すことが大切なのです。

思考とフュージョンすることなく、ただただ「観察する自己」を通して思考を観察できている状態が「脱フュージョン」ということです。

「エキスパンション(拡張)」の過程においては、まず「観察する自己」が現れます。

その上で「観察する自己」と「思考する自己」を区分して、その違いをしっかり認識する必要がありますので、以下に簡単なエクササイズをご紹介します。

身体意識(ボディ・アウェアネス)のエクササイズ

このエクササイズでは繰り返し、身体の一箇所に注意を向けます。

それぞれ10秒ほど注意を向けてみましょう。


  • 足に注意を向ける。
  • 自分の膝が今ある位置に注意を向ける。
  • 背骨の姿勢と、その湾曲に注意を向ける。
  • 自分の呼吸のリズム、スピード、深さに注意してみましょう。
  • 腕の位置に注意してみる。
  • 首と肩の辺りに何を感じるか注意してみる。
  • 体温に注意をむけ、どの部分が温かく、どの部分が冷たいか注意する。
  • 肌の表面の空気に注意してみる。
  • 頭から爪先までスキャンし、どこかに固さ、緊張、痛み、不快感がないか注意してみる。
  • 頭から爪先までスキャンし、気持ちの良い、心地よい感覚があるか注意してみる。

このエクササイズで、身体の感覚に気づくことは、それについて思考することとは全く違うということに気づけたのではないでしょうか。

”気づき”は観察する自己から生まれ、“考え”は思考する自己から生まれます。

もちろん、身体の感覚について思考する事はありますが、気づく、注意を向けると言うことは思考とは根本的に異なります。

思考する自己がおしゃべりを続けている間、観察する自己はひたすら身体に注意を向けていることに気付く、この両者の違いを理解できれば、次に進む準備が整ったということです。

「観察する自己」については、追々メインに取り上げて書く予定ですので、ここでは取り急ぎその概要をご説明させて頂きました。


おまけ「サマタ瞑想」

上でご紹介した身体意識(ボディ・アウェアネス)のエクササイズですが、マインドフルネスの「サマタ瞑想」でも同じように「観察する自己」と「思考する自己」の区別を理解できるかと思いましたので、簡単にご紹介いたします。

このサマタ瞑想は、呼吸にひたすら注意を向け観察するというものです。


やり方としては以下のような感じです。

  • 背筋を伸ばし、リラックスして座り目を閉じます。
  • 自分の呼吸にひたすら注意を向けて観察します

はい、これだけです。

ですが「これでお終い」と言ってしまっては身も蓋もないので要点もまとめておきましょう。


呼吸に注意を向けると言っても、最初は中々難しいのです。

ただじっと座っているだけでも「思考」のお喋りは止まりませんし、むしろ何もしていない分お喋りはヒートアップするでしょう。

ただ座っているだけでも「お腹が空いた」とか「そういえばあれどうだったかな?」とか、口座の残高とか、その他訳の分からん言葉や猥雑なイメージなど、どんどんと思考は溢れてきます。

それら思考のお喋りが湧き出てきたとしても、それらに注意を向けない事が大切です。

お喋りに巻き込まれることなく、意識を呼吸に向け続けるのです。

瑣末さまつな思考のお喋り、その一つ一つに注意を持っていかれないよう、湧き出てきた思考は、ただただ「あるがまま」にさせておくのです。次々と目の前を通り過ぎていく車のように。

注意は己の呼吸にのみ向け、呼吸を観察します。


呼吸に注意を向け観察すると言っても、どう注意を向け、どのように観察すればいいか分からない…という方もいるでしょうし、これも簡単に説明しておきます。

呼吸への注意と観察、そのポイントを箇所書きすると…

  • 鼻腔内を出入りする空気の感覚、と鼻腔内の感覚。
  • 鼻腔は吸う時少し冷たく感じ、吐く時少し温かく感じるでしょう。
  • 吸った空気が肺を満たす感覚。
  • 肺から空気が鼻腔を通って排出される感覚。
  • 吸って吐く時に上下する胸。
  • 吸って吐くときに前後する腹部。

これら「呼吸」に伴う身体の状態と感覚、その全てに注意を向け観察するのです。

*慣れていないと「呼吸」に意識を向けるのではなく、“意識して呼吸している状態”になってしまいがちですので、その辺がアベコベにならないように注意が必要です。あくまで自然に起こる「呼吸」を観察しましょう。


これを2〜3分でも、しっかり集中して行えれば「思考」と「観察」の違いが理解できるのではないでしょうか。

そして、さらに慣れてくれば「【呼吸に注意を向けている自分】に注意を向け観察」する事もできます。

「瞑想」には心身に様々なメリットがありますので、習慣として身に付けるのも良いでしょう。

瞑想もメインテーマとして扱ってみようかな?とかも考えていますが、またいずれ…

*ACTは「マインドフルネス」の影響を多大に受けていますが「ACT=マインドフルネス」ではなく、ACTにおける呼吸法も瞑想とは呼びません。ACTでは「瞑想を学びたければ導師グルの所へ行け」と言います。目的とアプローチの違いですね。