ACT04「観察する自己:オブザービングセルフ」

2022年8月2日

さて今回はACTアクト編第4弾となります。

今回はACTにおける「観察する自己:オブザービングセルフ」のご紹介になります。

ACTアクト」とは認知行動療法であり、「ACTアクト」を実践する事で、思考に振り回される事なく、心理的柔軟性=「今、ここに存在し、心を開き、大切なことをする」能力を以て、本当の幸福へ歩む活力を得ることが出来るとします。

実際に,うつ病や様々な精神疾患、統合失調症にも多大な効果を発揮すると言われています。

「観察する自己」については、これまでの記事で度々その概念を用いてきましたが、今回は「観察する自己」をメインテーマとして深掘りしていきたいと思います。


「どうして自分はこんなにダメなんだ」とか「自分には価値がない」とか、ネガティブな自己批判や自己否定に振り回され、悩み苦しみ、自信喪失する…なんて事は誰でも経験するでしょう。

しかし、最初に言っておきますが、大体の自己批判なんてものは根拠のない“でっちあげ”過ぎません。

では、誰が“でっちあげ”ているのか…

それは「自分を正しく理解していない自分」です。

自己批判や自己否定は“自分というものを正しく理解出来ていない”事が原因で起こります。

正しい自己認識ができると、ありのままの自分を受け入れる事が出来(自己受容)、根拠のない自己批判から自分を卑下することもなくなり、自分に対して優しくなれ、自分の本当の価値を見出す事ができるのです。

その正しい自己認識と自己受容の鍵を握るのが「観察する自己」です。

『汝、己を知れ』とは哲学のテーマでもありますが、果たして“自分とは一体何者であるか”…「観察する自己」を探ると答えが見つかるかも知れません。

さて、それではACT編04「観察する自己:オブザービングセルフ」の始まりです!


前回までの内容を踏まえた上での解説になってきますので、まだそちらをご覧になっていない方は、是非お目通し頂ければ幸いです。

「観察する自己」は“あるがまま”を見つめる視点

冒頭で、「大体の自己批判なんてものは根拠のない“でっちあげ”に過ぎません」と書きましたが、そうなんですよ、自己批判って"よくよく考える”と何の根拠もないただ思い込みに過ぎないってわかるのです。

で、この"よくよく考える”機会を与えてくれるのが「観察する自己」です。


「観察する自己」とは『自分という存在の中で集中、注目、気づきなどを司る部分』です。

と言っても…非常に抽象的な概念である為、中々スッと理解出来ないかと思いますが…それもその筈で、厳密に言えばそれに該当する言葉が存在しないのです。

「自己の中の思考を超越した自己」みたいにも表現できますが…

「魂」みたいなスピリチュアルで神秘的な話ではありませんので誤解なきよう…

簡単にいえば「何かに気づき、意識を向ける"視点”」です。

「観察する自己」はただ"あるがままの現実”を見つめ、何かに気づき、意識を向ける事はしても、そこに一切の判断を下しません。


例えば、そこにボールが転がっているとして…

ボールだ…白い…小さい…

と、状況のみに気づき、注目する視点です。


「観察する自己」はただ目の前の"あるがまま”を見つめる視点です。

つまり、これを自己批判のケースに当てはめてみると…

何かに失敗して「自分はなんて無能なんだ」と思い込みによって自己批判してしまう事があったとします。

しかし、それを「観察する自己」を通してあるがままに見るとその方法では上手くいかなかった」という事実があるだけだと分かり…

  • そもそも成功も失敗もたった一つの原因で成り立つものでは無い
  • それに対して責任の追及なんてするだけ無駄
  • 経験を次に活かせばいい

と、“よくよく考える”機会を得ることが出来て自己批判の思い込みから解放されます。

でっちあげ犯は「思考する自己」

根拠のない思い込みで自己批判をでっちあげる犯人は「思考する自己」です。

「思考する自己」とは「観察する自己」が気づいた目の前の出来事に、善悪や優劣などの判断を下す働きをします。

これも簡単に言えば「心の声」的なニュアンスです。

「思考する自己」は目の前の現実、経験にありとあらゆる判断、意味付けをし、物語を生み出します。

「自分の思考=正しい」と思ってしまいがちですが、我々が思考のままに行動していたら世の中はカオスになってしまいます。


例えば、目の前の相手に腹を立て…

ムカついた!殴れ!!

と「思考する自己」が言ってきたとして…

実際に即座に殴りますか?

………

「思考する自己」の声に逐一従っていたら、今頃、我々全人類は刑務所か病院にいなければなりません。


「思考する自己(心の声)」の生み出す物語に無条件に従うことはとても危険なのです。

我々が上手くいかない時や失敗した時には「思考する自己」はこんな物語をでっちあげます。

「自分はなんて馬鹿なんだ」
「自分はなんて価値のない人間だ」
「本当にクズの役立たずだな」
「全部自分の責任だ」

これらの物語に惑わされると自己批判に陥ってしまいます。

そもそも、目の目の出来事に対して「これは良い」とか「これはダメだ」とか判断を下すことは“あるがままの現実”を捻じ曲げて見た視点であると知っておかねばなりません…

自分に対してもそうです。

自分は自分が思っているような人間でもないのです(詳しくは、後述します)

思考は事実でも、自分自身でもありません。

要は、あらゆる判断と評価を下す「思考する自己」の主張はただの創作の物語に過ぎないという事です。

その物語にいちいち振り回されてると、身も心も疲弊してしまいます。

「思考する自己の主張≠現実(事実)」であり、「思考する自己≠自分自身」であるとしっかり認識する必要があります。


「観察する自己」と「思考する自己」についてはこれまでに何度か取り上げてきましたので、参考までに以前の記事を抜粋しておきます。

↓詳細はこちらで

ACTでは「自己」と言うものを二つの概念で捉えます。

それが…

  • 思考する自己
  • 観察する自己

です。

この二つをざっくりと説明すると。

思考する自己

これは文字通り、アレコレと思考を生み出す自己です。

計画、判断、比較、想像、創造、視覚化、分析、記憶、空想、夢想などを担当し、平たくいえば「マインド(認知的能力)」となります。

もっと分かりやすく言うなれば「心」ですね。

観察する自己

「観察する自己」は「思考する自己」とは根本的に異なります。

観察する自己は、何かに“気づき”はしますが、考えはしません。観察する自己は、集中、注目、気づきなどを司ります。

舞台劇に例えるなら…

「思考する自己」は舞台上でアレコレと演技をする演者。

「観察する自己」はそれを客席から見ている観客。

と言う感じですが…

もう少し説明が必要ですね。

我々人間は思考する生き物なので、どうしても思考している自分(思考する自己)が自分であると認識しがちではありますが、以前も述べたように、我々が思考のままに生きていたら今頃は全員が刑務所か病院にいなければなりません。

「思考=自分」ではないと再度理解しておく必要があります。

物理空間で例えるなら

「思考する自己」と「観察する自己」の違いを物理空間での現象に喩えるなら…

例えば、野球をしているとします。

あなたはバッターで、バッターボックスに立っています。

相手ピッチャーが今まさに、ボールを投げようとしています…

あなたは、ピッチャーがどんなボールを投げてくるか、その一挙手一投足に注目しています。

いざボールが投げられ、自分の目の前に飛んでくるまでボールに集中し釘付けになっています。

この注目し、集中しているのが「観察する自己」の働きです。


では「思考する自己」は何をしているかといえば…

「めっちゃ速そうな球や」

「あ、汗で手が滑ってバットが飛んでいったらどうしよう」

「今日の晩御飯何食べよう」

と、埒もないことばかり考えているのが「思考する自己」です。


観察する自己が、埒もない思考に過剰な注意を向けてしまう事で、集中が阻害される場合もあります。

集中しなきゃ!集中しなきゃ!

とか考えていると、かえって集中できない事ってありますよね。

精神的に例えるなら

「思考する自己」と「観察する自己」の違いを精神的空間で喩えるなら…

先ほども引き合いに出しましたが、舞台劇を例としましょう。

この舞台は一風変わっており、演者それぞれが同じ舞台上で別々の劇を演じています。

舞台上には様々な演者が、それぞれ思い思いの劇を演じています。

「怒りの劇」を演じる者、「笑いの劇」を演じる者、「悲しみの劇」を演じる者、「訳のわからない劇」を演じる者…

この舞台の登場人物、演者を生み出しているのが「思考する自己」です。

そして、その舞台で繰り広げられる劇を観客席から観ているのが「観察する自己」です。


観察する自己はただただ舞台を眺めています。

それぞれ異なる劇を演じる演者たちを観ています。

その中でも目立たない劇、目立つ劇…様々な劇が目に入りますが、やはり目立つ劇、激しい劇を演じる演者に注目してしまいがちです。

この激しい劇を演じている演者こそが「ネガティブ思考」である場合が多いのです。

その激しい劇を演じる演者に見入ってしまい、他の演者が見えなくなると、その演者(思考)とフュージョンしていると言うことです。

ひとつの劇に没入してしまう事より、舞台全体を見渡すことが大切なのです。

思考とフュージョンすることなく、ただただ「観察する自己」を通して思考を観察できている状態が「脱フュージョン」ということです。

自尊心からの解放:自分である事を良しとする「セルフ・アクセプタンス」

「自尊心」とは、自分自身を評価し、自己を認識する手立ての一つに思われますが…

例えばこのような感じに…

  • 私は年収も社会的地位も高く自分自身を誇りに思う。
  • 私は厳しいトレーニングと徹底管理した食事制限によって最高の肉体を得た素晴らしい人物だ。
  • 私は不細工でとても人前に出れるような人間ではない。
  • 私は収入が低く、社会の底辺で恥ずかしい人間だ。

とまぁ、良くも悪くも様々でしょう。

自尊心とは、手っ取り早くいえば「自分がどんな価値のある人間かについての自分の意見」です。

「自分に対する自分の意見=自尊心」の優劣に関して、一般的には…

  • 自分に対し否定的な意見=自尊心が低い(自分に自信がない)
  • 自分に対し肯定的な意見=自尊心が高い(自分に自信がある)

という具合でしょう。

一見すると、自尊心は低い人間より高い人間の方が社会的に優れていると思ってしまいがちですが…実はそれは幻想に過ぎません。

自尊心とは「自分がどんな価値のある人間かについての自分の意見」であるとしましたが、そうです、自分の意見でしかないのです。

もっと言えば、自尊心とは「自分が優れているか否かの思考の集積」に過ぎないのです。

ホワッツ??

どういうことかと言えば…自尊心なんて高かろうが低かろうが、そんなものは現実を見る目を曇らせるだけでしか無いということですね。

自尊心の低い人間は「自分は不十分」であると自身を過小評価するばかりに本来の能力を発揮できない。気も萎え、下へ下へと堕ち続けてもがき苦しむ…

片や、自尊心の高い人間は「私は優れた人間である」という思いを常に持ち続けなくてはならないので、何かに躓いたり、失敗した時などは、自己評価を下げないように必死にもがかなければいけなくなるのです。

自尊心は高くとも低くとも、もがき苦しむ…

ここで必死に自己評価を下げない為に(または上げる為に)「私は優れている、私は失敗しない、私はツイてる」などとポジティブシンキングのアファーメーション(断言)テクニックを使って回避しようとも、ポジティブシンキングには致命的な欠点があります。

それは…

いくら自分に都合のいい言葉を唱えようとも、心の底では誰もそんな言葉を信じられない

ということです。

いくら自分に「私はスーパーマンだ!!」と言い聞かせても、それを鵜呑みにしてビルの屋上から飛び降りることが出来る人間がいるでしょうか?

シラフの人間にはとても無理でしょう。(酩酊状態ならスーパーマンになれるという意味ではありません)

最終的にはスーパーマンではない自分に失望する羽目になるのです。

ポジティブシンキングは結果的にネガティブな反応を引きつける傾向にあるのです。

このことを簡単に実感できるエクササイズがあるのでご紹介しましょう。

ポジティブシンキングの所謂「引き寄せの法則」を逆手に取ったエクササイズです。

反対勢力の引き寄せのエクササイズ

以下の文章を自分に言い聞かせるように、言葉そのままを極力信じるように、順番に読んでください。そして、どんな思考が頭に浮かんでくるか見てみましょう。


①私は人間だ。

②私は価値ある人間だ。

③私は価値ある愛すべき人間だ。

④私は完全で、有能で、価値ある愛すべき人間だ。


さて、どうでしたでしょうか?

①や②はまだしも、③くらいからは大きな抵抗を感じるのでは無いでしょうか?

「おいおい、いくらなんでも自惚れ過ぎだろ」みたいに感じるでしょう。(中には本当に自惚れ、天狗になってしまう人もいるでしょうが、それも長続きはしません)

ポジティブすぎる言葉を自分に言い聞かせようとしても抵抗が生まれ、信じることができないのです。

同じ要領で、今度は次の言葉を自分に言い聞かせ、信じ込んでください。


・私は役に立たない、どうしようもない人間のクズだ。


今度はどうでしょう?

ほとんどの方が自己防衛のためにポジティブな思考を働かせるのでは無いでしょうか?

「いやいや、いうても俺はそこまで悪くは無いでしょ」みたいに…(これもこのネガティブな言葉と本当にフュージョンしてしまい気分が落ち込んでしまう人もいるでしょうが…)

どうでしょうか?このように我々は自己について、良い物語も悪い物語もいくらでも無限に作り出せてしまうのです。

比較的に抵抗を感じにくい物語を信じ易いだけです…なんとも曖昧だと思いませんか?

要は、すべて状況に依存するので、自分が自分に対して下す評価に、普遍的な価値など存在しないのです。

言ってしまえば全て〈妄想〉です。

「自尊心≠自分の価値」であるとお分かりいただけただろうか…

自尊心なんて、その場その場での「自分は今このくらい価値のある人間だ」という「思考する自己」による一過性の価値のこじつけに過ぎないのです。

そもそも人の価値は「この時ああなったから、あの時これが出来なかったから…」といちいち変動するものではありません。

自尊心が低ければ惨めに思い、何とか這い上がろうともがき苦しむ…

自尊心が高ければ高いで、それを保ち続けるために努力を強いられ「いつか失うんじゃないか」という恐れから逃げ続ける…

「自尊心=自己価値」の証明のための戦いは不毛でしかありません。

自尊心は自己認識には何の役にも立ちません。


お前は最高だ!ベスト・オブ・マン!!

失敗したな!?やっぱり、お前はバカでクズの役立たずだ!

逐一「思考する自己」が下す自己評価に、いちいち右往左往する必要はありません。

それらはただの言葉であり、創作の物語です。来て去るがままにさせましょう。

自己評価から自由になり、自尊心を解き放ちましょう。

自尊心から解放されると、自分をありのまま受け入れることができます。

自分は人間なのだから不完全であって当然だ。時に失敗もするし、間違いも犯す…だからなんだ、これが自分だ。「自分であることを良し」としよう!

これをセルフ・アクセプタンス(自己受容)と言います。

セルフ・アクセプタンスが出来ると、心(思考する自己)が自分に下す評価に振り回されずに済みます。

物事が上手く運ぼうが、失敗しようが「自分はこれで良し!これが紛れもない今の自分なのだ」と常に前向きでいられます。

つまり「思考する自己」の投げかける物語に飲まれることなく、自分に対して評価と判断を下す代わりに、自分の弱みと強みを正しく認識し、自分が本当になりたい人間になる為の行動を起こす事が出来るのです。