真理と真実と屁理屈

2021年11月18日

突然ですが、真理とはなんでしょうか…。

よく創作等で、邪教の教祖っぽい怪しいオジサンが

「真理とはウンタラカンタラである」とか

「ウンタラカンタラこそ真理である!」とか、まことしやかにうそぶいているのを目にしますが…

しんことわり」と書いて真理です…では「ことわり」とは、物事の筋道、道理、条理というような、広義で「正しさ」という意味ですね。

という事で、真理というものがあるとしたら「万物の根本原理」であり「根源的な正しさ」とも言えるのではないでしょうか?

どこからみても「正しい」…「正しさ」以外の何者でもないのが「真理」

個人的には永遠不変であり完全無欠であるものは存在しないとする考えなので、「真理」というものに対して否定的ではありますが…

しかし仮に「そんなものがあるとしたら、こんな感じではないのか?」という視点心から

「真理、真実、屁理屈」について色々と述べていきましょうか。

少し長くなるかも知れませんが、よろしくお付き合い下さい。

「真理」とはただそこにあるだけ

さて、では何をもって「真理」とするか、それが問題ですが…先ほどもの述べた通りやはり「万物の根本原理」であり「根源的な正しさ」では無いでしょうか。

「正しさ」というと少し語弊があるかもしれません。

というのも、「正しさ」とは我々の主観による物差しでしかないので、ある物とある物を比べて見て「こっちこそ真理だ!」と言えるものではないという事です。

ん?

「真理」とはどうやっても動かすことのできないもの、「正しいか正しくないか」相対化することすら出来ない、「正しさを疑うことすら出来ない」ものであるからです。

どこから見ても、どこを切ってを「正しさ」しか無いので、「正しさ」という概念も消え去ります。

ちょっと難しく聞こえるかもしれませんが「根源的な正しさ」とはそういう事ではないでしょうか。

真理は見ることも触れることも言葉にすることも出来ない

「根源的な正しさ」の前に人は(人のみならず何もかも)無力で無意味です。

「疑う事もできない」ということは考える事もできない、あらゆる想念も掻き消えます。

つまり、本当の「真理」とは我々人間の言語能力、認知能力を遥かに超えたところに存在し「触れることも、言葉にすることも不可能なもの」では無いでしょうか?

*本当の真理って、頭痛が痛いみたいなトートロジー的表現ですが、便宜上です。

物理的真理

物理学では「世界の全てを表す数式」というものがあり、これはまだ不完全で、目下修正を続けているそうですが、近い将来、宇宙の全容は数式によって記述することができるようになるとされています。

素粒子は「ひも」の振動によってその性質を変えているだけとか、その「ひも」は10次元空間で振動しているとか、我々の生きるこの世界は「ひも」が幕にくっついて構成されている「ブレーンワールド」であるとか、この世界は実は映画「マトリックス」のようなものであるとか…現代物理学では色々な仮説が打ち立てられています。

普段何気なく生きているこの世界がどのように構成されているか、様々な仮説は事実であるか、好奇心が掻き立てられます。

私が生きている間に是非ともそれらを目にしてみたい!知りたい!というのは本心ではありますが、「宇宙の全てを数式で記述できる」=「真理」とするかどうかは、また別なような気もします。

真理に限りなく近づく事はできても、たどり着くことは出来ない。

そんな感じじゃ無いですかね…まぁ、この話は一旦置いといて

法則も真理の一端、真理はずっとそこにいた

我々人類は、さまざまな自然の法則、物理の法則を発見し、文明を発展させ生活を豊かにしてきました。

先程の物理学の話と同様、文明の発展も「真理に近づいていく事」でもあると言えます。

「科学や物理学=真理」と言いたいのではありません。

えぇーと、つまりですね、あの、その、あれですね…何が言いたいかと…。

「真理とは言葉にすることができない」と先程自分で言っておいてなんですが、なるほど…言葉にすることができませんね。

科学や物理学=真理では無くても、それら「法則」と呼ばれるものは真理の一端であると言えるのではないでしょうか。

人が発見し明らかにしてきた「法則」は、人が生み出したのでは無く、常にそこにあったのです。

これから先の未来において明かされるであろう宇宙の法則も、今現在、我々と共に存在しています。

それら真理の一端を応用することは出来ますが、「万物の根本原理」である真理そのものに触れて、どうこうすることは出来ませんし、真理の方からも明らかな意図を持って我々に何かしてくる事もありません。

以上のような事から

「真理」は常に、ただそこにあるだけ

です。

現状の人間ではスペック不足

ちょっとおまけ的なお話になりますが…

仮に真理に触れる事ができる人間が現れたとして…

そうなれば、その人は万物の根本原理に触れる事で超人的な能力を得る事ができるのでは無いでしょうか。

真理に触れるとは、森羅万象の全てを知覚できるという事ですね。

で、ちょっと意地悪な仮説を立ててみます。

森羅万象の全てを知覚できる…では仮に地球の総人口の75億人にアクセスし、全ての顔と名前を覚え、日々、瞬間瞬間、何をして何を考えているか把握し続ける。

果たして人間にそんなことが可能でしょうか?

どう考えても、現状の人間のスペックでは不可能です。

逆説的にいえば、真理から超人的能力を得るのではなく、超人的能力を有した人間だけが真理に触れる事ができる、とも言えます。

肉体のスペック的に現状の人間では到底無理という事ですね。

真実はそれぞれの現実の体感

「真理」について、色々好き勝手に述べてきましたが…「大体こんな感じじゃない?」と言ってもいいんじゃ無いでしょうか。

さて、続いて「真実」についてです。

真実とは体感を伴った現実であるとも言えます。

真実=主観から生まれる仮想現実

私が度々こちらのブログで言っているように、人は己の主観を通してでしか世界を認識できず、体感する事もできません。

主観で見た世界がその人にとっての体感を伴う現実世界であり、真実なのです。

しかし、いくら体感を伴おうが、真実では「あるがままの世界=まごう事なき現実世界」を見る事ができません。

あるがまままであるとは、呼んで字の如くあるがままです。

ただただそこに存在している何かであり、何かが起こした事象、それらに何の意味も価値も含まない…これが「あるがままの世界」です。

我々が生きているのも一応、この「あるがままの世界」の上です。

ところが我々は、同じ「あるがままの世界」の上で「主観というフィルター」を通し、それぞれ異なった現実世界を体感し生きています。

道に「花」が咲いています、特に意味はありませんが咲いています。
そこへ通りかかったある人は「綺麗」と言い、また別のある人は苛立ちながら「邪魔だな」と言い引っこ抜いてしまいました。

というように「花」が咲いている事自体に何の意味もありませんが、それらを「綺麗」だの「邪魔」だの、違った想念を抱かせるのは、それぞれの主観によるものです。

これが体感を伴った現実世界〈真実〉となります。

体感を伴わない現実というのは「花」を見ても何も思わない、そもそも「花」に気付きません。

主観によって生まれる真実では「あるがままの世界」を見る事はできませんが、主観による真実がなければ体感も生まれないので、現実世界も存在しない事と同じになってしまいます。

つまり「あるがままの世界」を見るということは、己もあるがままとなり、世界と一体化するしかありません。

世界との一体化とは、自分と外の世界の境界が消え、何を見ても何も感じない、感じないというか認識できない、ただ自分もそこにあるがまま存在しているだけ…という感じです。

そんなの嫌でしょう?

嫌でしか無いでしょう?

つまんないでしょう?

我々はたった一つの「あるがままの世界」の上で、それぞれの主観によって作り上げた「真実=仮想現実」の世界を生きていると言っても過言ではありません。

「真実=夢現ゆめうつつの幻想が我々にとっての現実である」という事でいいでしょう。もう。

絶対的に正しい真実は存在しない

我々にとっての現実、真実を映し出す主観とは、〈経験してきた記憶であったり、今自分が信じている事柄〉がかたどるものであり、さらにはその時々の気分によっても左右される流動的で、不確実なものであります。

真実はいつも千鳥足の酔っぱらいと同じようなものです。

フラッフラです。

つまり人の語る「真実」に、決して「真理」は無いという事です。

「これぞ正しい!これぞ真理ぃぃぃ!」と大声上げる人には要注意!です。

正しさの基準

個々の主観が導き出す「真実」に絶対的な正しさは存在しない。

とはいえ、ある一定の「正しさの基準」が無いことには、社会も混乱してしまい、身勝手な真実の押し付け合いは争いの種になります。

ですから、ある一定の「正しさの基準」が必要になってきますが、それらがルールであったり、法律であったりします。

身勝手な真実の押し売りはせず、ルールもちゃんと守りましょう。

全ては屁理屈

はい、ということでここまでが前振りでした。

わざわざ、よくわかんない「真理」なんてものを引っ張り出してきて、なんだかんだとこねくり回してきたのは全てこの章のためです。

というわけでラストスパートです。

この世の大体が「屁理屈」であるが、尊重しなければならない

ここまで見たきたように

「人の真実には絶対的な正さは存在し得ない」という事で、どんな教義体系も人が作り上げた物は不完全であり、必ず矛盾を孕むもの、それらは言ってしまえば全て「嘘も方便」つまり、屁理屈であるという事です。

とは言っても、他人の主張を頭ごなしに「けっ、屁理屈め!」と否定するのではなく、あくまで己の真実を「屁理屈と知れ」という事です。

自他ともに屁理屈であり、絶対的な正しさは存在しないからこそ、他人の意見は尊重する必要があります。

無条件に人の言う事を鵜呑みにするのは危険ですが、無条件に否定することもまた危険です。

人の話には、まずはしっかりと耳を傾ける事が大切です。
「人の言葉に耳を傾けられない」そんな者の言葉にも、誰も耳を貸さないでしょう。

正義はいらない

真実の押し売りはやめましょう!とも言いましたが、もっと言えば正義も要らないので捨ててしまいましょう。

ぶつかり合う両者のどちらにも「正義」があってはならないと私は思います。

そもそも「こちらが絶対に正しい」という正義の押し付けこそが争いの火種となります。

自分の正しいと思っていることも、他の相手にとっては屁理屈でしかありません。共感を強要するのではなく、共感を得られるように屁理屈をこねくり回してください。

共感せずとも共存はできる

みんながみんな手に手を取り合って同じ志の下、平和に暮らせたらどんなに良いでしょう。

しかし、残念ながら今の所それは人類には難しいのでは無いでしょうか?

学校や会社のような狭いコミュニティでもいざこざが絶えることはありませんし、全ての人間が分かり合えるというのは、ちょっと難しいと思います。

かといって、自分に共感を得ない人間を無闇に攻撃しまくっても、やがては身を滅ぼします。

分かり合えない相手には、干渉しなければいいだけの話です。

損得勘定で考えて、ぶつかり合い消耗しあう方が得か…互いに干渉もせず、相手の不利益になる事もせずに、ただひたすら関わらずに共存するのが得か…

どちらが良いかは明白でしょう。まぁ、それが出来ればって話にもなるんでしょうが。

まとめ

以上。

「真理」とは触れることも、見ることも、語ることもできず、ただそこにあるだけ

「人の真実はそれぞれの生きる現実世界ではあるが、正しさではない」

人の語る事は大体、屁理屈…」

という感じで見てきました。

その人その人にとっては真実であっても、その真実が万人に受け入れられる事はまずありません。

己の真実が屁理屈と知り、人に押し付けず、人の屁理屈を無闇矢鱈むやみやたらと否定することもやめましょう。

しかし、とある誰かの「真実=屁理屈」が人を傷つけたり、殺めたりするようなものであれば、それはそれで大問題です。

警察に相談しましょう。

私の屁理屈、論理的に筋が通っているかどうか

私はよく仏教思想を持ち出して屁理屈をこねくり回していますが、まぁ一口に仏教と言っても一口では語れないほど色々あって、例えば輪廻転生についても、否定している所もあれば、認めているところもありますし、人の数だけ真実があるように、仏教にも本当に色々ありますが、それらを今ここで全部語ると長くなりすぎますし、それはそれだけで記事にもできるので今日のところは温存しておきます。

とは言え「こっちの教えが正しくて、あっちは間違った教えだ!」とかいうのはノーサンキューで、勝手にやっててくださいよ、というのが私の仏教思想に関するスタンスです。

私が基準とするのは、本来ブッダが説いたとされる教え「何を崇めるでもなく、己を拠り所として、己で己の覚りを得る」という点と、正しい正しくないではなく論理的に筋が通っているかどうかです。

論理的に筋が通っており、「今を生きる」為に役立つものならば、仏教でもなんでも積極的に取り入れていこうじゃないですか!

というのが私の屁理屈の根本的姿勢です。

今回は以上となります。
それではまた!良い人生を!