ACT01「脱フュージョン」
さて今回は前回の導入編を経て、ACT編第1弾となります。
「ACT」とは認知行動療法であり、「ACT」を実践する事で、思考に振り回される事なく、心理的柔軟性=「今、ここに存在し、心を開き、大切なことをする」能力を以て、本当の幸福へ歩む活力を得ることが出来るとします。
実際に,うつ病や様々な精神疾患、統合失調症にも多大な効果を発揮すると言われています。
今回はACTにおける「脱フュージョン」と呼ばれるテクニックのご紹介になります。
我々が日々、不安や恐れ「ネガティブな思考」に振り回され、ついつい自分にとって不利益な選択をしてしまい、時には自身に害を成す行動をも取ってしまいがちではありますが…それは、我々が不快でネガティブな思考とフュージョン(同化)してしまっているからです。
ネガティブ思考に振り回される事なく、人生において自分にとって本当に意義のある行動を取り続けるには、思考というものの正体を知り、思考とのフュージョンを解く必要があります。
その為のプロセスが「脱フュージョン」です。
さて、それではACT編01「脱フュージョン」を始めていきましょう。
前回の「導入編・感情コントロールを手放す」の内容を踏まえた上での解説になってきますので、まだそちらをご覧になっていない方は、是非お目通し頂ければ幸いです。
思考とのフュージョン
前回、思考とは止めどなく溢れてくるものであり、コントロール不能で、おまけにネガティブであるものが多いと述べました。
しかし、それらの思考はあくまで単なる思考(言葉、映像)に過ぎず、現実や事実に影響を及ぼすものでは無いともしました。
問題なのは、あたかもそれら思考を現実と思い込み、思考とフュージョン(同化)してしまう事で思考に振り回され、正しい現実が見えにくくなり、自分にとって有益な行動ができなくなる事です。
フュージョンとは以下のような状態を指します。
- 思考を今ここで起こった現実のように感じる
- 思考を真実であると信じる
- 思考を真剣に捉え、最大限に注意を向ける
- 思考を命令と考え、自動的にそれに従う
- 思考は賢いもの、全知あるとされ、そのアドバイスに従う
- 思考は脅迫になり得る
どうして我々は、いとも簡単に思考とフュージョンしてしまうのでしょうか…
第一に、これまで思考と現実の区別が出来ていなかったと言う問題がありますね。
フュージョンという概念を知らなければ、思考とフュージョンしている状態がニュートラルとなりますから…それが「当たり前」であったのですね。
- 嫌なことがあれば落ち込み、いつまでも引きずる。
- 一度イラッとしたら、不機嫌が長く続く。
- 不安を追い払おうともがくも不安は離れていかない。
- 過去のトラウマに悩まされ続ける。
- 恐怖や不安を紛らわそうと、アルコールや薬物に逃げる「経験回避」に走る。
このように、思考とフュージョンの関係性を知らないばかりに、不安や恐れ怒り等の感情と簡単にフュージョンしてしまい、コントロールしようと足掻いても、状況は変わることなく「経験回避」などの回避行動によって、依存症や自傷行為に走ってしまい悪循環に陥る…。
では、そもそも思考とは何なのでしょうか…思考をどう捉えればフュージョンせずにいられるのか…
それには思考というものの正体を知る必要があります。
心は自己アピールの激しいクリエイター
思考とはどこから生まれてくるかといえば、我々の心です。
心とは壮大な物語を紡ぐ脚本家であり、さまざまなイメージ映像を創造する芸術家であり、あらゆる感覚を呼び起こす至高のエンターテイメントクリエイターであり、何より厄介なのが“自己アピールが激しい”ことです。
あらゆる物語を書き出し、あらゆる映像を作り出し、あらゆる感覚を我々に想起させます。
「ほら見て!ねぇ、これすごいでしょ!?ねぇ!ほらほら」と振り向いて欲しくて仕方がないのです。
小学生が好きな子に敢えて意地悪してしまうかのように、心はこのようにアプローチをかけてきます。
- 「お前は無能だ、醜いデブだ、誰にも好かれない」と物語を語り聞かせる。(頭の中の言葉)
- モデルと自分の体型を並べて比較するイメージを見せる(頭の中の絵)
- 実際より誇張してお腹の脂肪の揺れを感じさせる(体の感覚)
当人の能力や容姿に関してネガティブな思考を生み出す理由は、これも我々の祖先が狩猟採集民であったかつての名残です。
厳しい自然環境の中では群れから追放される事は、すなわち死を意味します。ですから我々の遺伝子には「帰属意識」が根付いており、常に「自分は他人と違う異端者になってはいないか」と周囲と自分を比較して安心しようとしてしまうのです。
容姿にしろ、生活スタイルにしろ、何かと他人と比較してしまうのは生存本能でもあるのです。
要するに心が注意喚起してくれているのですね。「気をつけろ!このままじゃ群れから追い出されるぞ!」と…
しかし、今は狩猟採集民でもないし…いくら自分の心とはいえ、あまりにもあけすけで不快な思考ばかり投げつけられては拒絶したくもなります。
ですが心の生み出す思考やイメージ、感覚は、そうやって拒絶されればされる程に、「おい!なんで見ないんだよ!お前の為にやってんだよこっちは!」とばかりに強力に張り付いてフュージョンしてしまいます。
目を背けようとすれば、頭を掴んで無理矢理に視線を戻させ、嫌なものに注目させます。
押し除けようと強く押しても、全く同じ力で押し返してきます。
遠くに投げ捨てようとしても、より大きな反動を伴って戻ってきます(ゴムパッチンのように)。
こんなことを続けていては疲弊するだけで、やがて限界が訪れます。
自分の心が生み出す不快な思考と闘おうとしても、文字通り「一人相撲」となって徒労に終わります。
しかし、それら心が生み出す思考そのものには、現実に影響を及ぼすような力は一切ありません。
自分の内側で起こっている創作劇にしか過ぎないのです。
これに気付く事が「脱フュージョン」への第一歩です。
思考の正体に気付く
先程述べたように、思考には現実に影響を及ぼすような“何の力もありません”ただの物語であり、イメージであり、言葉の羅列です。
自分の内側でネガティブな物語を流し続けるラジオのようなものです。
とはいえ、これまでネガティブな思考とフュージョンしてしまい、長く苦しみ続けた経験がある方には「そんな簡単には割り切れない難しい事」と思う事でしょう。
では、ちょっとした心理的エクササイズを通して、思考の正体に気付いていきましょう。
あなたを動揺させる思考を「私は〇〇だ」という形で思い出してください。
「私は無能だ」「私は大した事ない人間だ」「私はデブだ」etc…
いつも心に浮かんでは、自分を悩ませ、動揺させ混乱させる思考が望ましいです。
その思考に10秒間浸り、できる限りそれが真実であると信じ込んでください。
できましたでしょうか?さぞ不快な感覚を味わった事でしょうが、もうしばらくの辛抱です。
では次に、その自分を苦しめる思考に「私は「自分が〇〇だ」という考えを持っている」という文を付け加え、思考に浸ってください。
例:「私は「自分が無能だ」という考えを持っている」
という具合です。
では、どういう変化が現れるか、上記の文章にならって再び思考に浸ってください。
どうでしょうか?
このような文脈で思考を捉えると、どことなく他人事のような感じがして、事実として捉え苦しんでいた自分の思考からいくらか距離を取れたように感じるのではないでしょうか。
まるで「数歩下がってみた」かのような…
このテクニックは様々な不快な思考に応用できます。
例えば、心が「私は失敗する」と騒ぎ出し、足がすくむ事があったなら、こう考えるのです。
「私は「自分が失敗する」という考えを持っている」と…
この「私は「自分が〇〇だ」という考えを持っている」このフレーズを用いることで、自分の思考に苦しめられることは少なくなり、数歩下がって思考の正体を見極めることができるのです。
思考とは一瞬頭をよぎった言葉でしかない。と…
このようなプロセスが「脱フュージョン」のテクニックです。
フュージョンしている状態だと、思考を絶対的な事実と認識してしまいます。しかし「脱フュージョン」の状態では以下のように思考を認識できます。
- 思考は単なる音、言葉、物語、あるいは言葉のかけらである。
- 思考は真実かもしれないし、そうでないかもしれない。盲目的に信じるべきものではない。
- 思考は重要なものかもしれないし、どうでも良いものかもしれない。それが役立つものである場合のみ注目する。
- 思考は命令ではない、それに従う必要は全くない。
- 思考は賢明である時もあれば、そうでない時もある。自動的に従うべきではない。
- 思考は決して脅迫ではない。脅威にはなり得ない。
「脱フュージョン」の目的は思考を”取り除く”ことではなく、単なる言葉の羅列として“あるがまま見る”ことであり、それに抵抗することなく、あるがままにしておく事です。
あなたを悩ませるネガティブな自己判断を思い浮かべてください。
例えば「俺はなんてダメな奴なんだ」という具合です。
その思考に10秒間浸り、できる限りそれが真実であると信じ込んでください。
*あくまで例えとしての「俺はなんてダメな奴」です。自分が最も自分に対してネガティブに思う自己判断に差し替えてください。
どうでしょう…それがあなたにどんな影響を与えたでしょう?
やはり、自分はダメな奴だと凹んでくるのではないでしょうか?
では次に、再びその思考を思い浮かべて「ハッピーバースデー」の節回しで歌ってみましょう。
思考が上手く節回しにハマるように考え、頭の中で静かに歌ってみましょう。
おっれはなんてダメーな奴だぁ〜♪
先程ただ単に「俺はなんてダメな奴だ」と思い込んだ時と何が違うか、印象の変化に注目しましょう。
さて、再びもとの思考に戻りましょう。
「俺はなんてダメな奴だ」もう一度その思考に10秒間浸り、これ以上ないくらいそれが真実であると信じ込んでください。
そしてその思考があなたにどのような影響を及ぼすか観察してください。
では今度は、その思考を「ジングルベル」の節回しで歌ってみましょう。
思考が上手く節回しにハマるように考え、頭の中で口ずさみ、起こる変化に注目してください。
おっれはぁ〜、なんてぇ〜ダ・メ・な・奴だぁ〜♪
どうでしょうか?
思考に対して以前ほどシリアスな印象を抱いていない事に気付けたでしょうか。
信じる度合いも以前ほど強くなくなっているはずです。
ここで気付くことがまだあります、あなたは思考と一切対決しておらず、それを追い出そうともしていません。
真実かどうか検討もしていませんし、ポジティブな思考と入れ替えようともしていません。
であるにも関わらず、思考が以前よりも軽く感じられるでしょう。
何が起きたのか…
「脱フュージョン」したのです。
思考を音楽に乗せる事によって、それがただの言葉で作られたものであると気付けたのです。
思考とフュージョンしない為には、あまり思考を真面目に捉え過ぎないという事もポイントです。
例えば、会社の命運を左右するような会議、厳粛な雰囲気の中で、突如として心が「オチンチンと叫べ!今だ!」なんて囁いてきたとして、それを真面目に捉えて
我が社のこれからの社運を担うのはオチンチン!です!!
なんて言いますか?
言わないでしょう…
「心の囁き=思考」なんて大体がこんなものです。
荒唐無稽で無秩序で無意味なものが多いのです。
心が何かネガティブな思考を投げかけきても
「ああ、こいつ(心)の言っている事は大体“オチンチン”と同等だな」
くらいに思っておけばいいのです。
心の生み出す物語に引き摺り込まれない
心は四六時中、あらゆる物語を創作し、我々に見聞きさせてきます。
先ほども述べた通り、それは物語に過ぎず、現実に影響を及ぼすものではありません。
しかし、心が語るストーリーが我々の胸を掻きむしり、足をガクガク震えさせ、動悸を激しくさせる“臨場感の高い”ものであった場合、我々は、いとも簡単にその物語とフュージョンし、物語の登場人物の一人となってしまいます。
大事なのは、心が語るどんな恐ろしい物語でも、Netflixでホラー映画を見ている程度の臨場感に留めておく事です。
Netflixを今目の前で起きている現実であると思い込める人はいないでしょう。
心が語る物語もそれと同じなのです。
「創作の物語であって現実では無い」と認識を持たなくてはいけません。
過去のトラウマであれ、将来の不安であれ、心が語る物語はそれ以上でも以下でもありません。
しかし、我々はその物語が強烈に不安を煽るものであった場合、トラウマを想起させるものであった場合、それを現実として捉えフュージョンしてしまいます。
だから予め、自分を不安に陥れるような物語をチェックしてアンカーを打ち込んでおく必要があります。
どんな恐ろしい物語でも距離をおいて見れるように(そうNetflixを見るくらいの感覚で)
自分が恐れる物語なんて大体想像できますよね。
普段から自分を苦しめ、現実から自分を連れ去ってしまう不快な思考です。
例えば、いつも失敗することばかり考えてしまい、足が震え挑戦できないことがあったとしたら…心は失敗する物語をあなたに見せているのです。
その物語に題名をつけてあげましょう。
「失敗物語」「失敗するかもしれない物語」「失敗太郎物語」「またやっちゃった物語」etc…
心が語るネガティブな物語に題名を付ける事によって、物語を現実ではなく、創作の物語として捉えやすくなります。
そして、いざ心がその物語を語り出す場面に遭遇した時に、こう言うのです。
お!始まりましたね「失敗・やっちゃった物語」!
いよっ!待ってました!!
と、こうすることで臨場感の距離が保たれ、物語に引き摺り込まれ、登場人物の一人になってしまう事は少なくなります。
心に瞬時に感謝
心は非常に自己アピールが激しく、無視されたり、拒絶されたりすると、さらに激しくアピールを繰り返します。
何故こんなにも心とは自己アピールが激しいのかと言いますと、先ほどもチラッと触れましたが、生存本能による危機回避のためでもあるのですよ。
だから何かとアラートを鳴らしまくる…こちらとしては、ありがた迷惑な部分でもあるのですが…
心からしてみれば…
わざわざ忠告してやってんだ!無視すんな!コラ!
的な感じでしょう…
ですから、心がどんなにネガティブで不快な思考を投げつけてきても、それを無視したり拒絶しようとした瞬間に、心はさらにグワッ!!と迫り、我々をネガティブの渦に引き摺り込むのです。
だから大切なのは、心が何を言ってきても無視したり拒絶したりせずに、瞬時に感謝し認識してあげるのです。
「心に感謝する」
ACTでは、これは非常にシンプルかつ効果的な脱フュージョンのテクニックであるとしています。
心の投げかける思考を無視したり押し退けたりすればする程に、それらはより強力になって押し寄せてきてしまう。
だから、最初に感謝することで「認識しているよ」と教えてあげるのです。
心が「お前は無能だ」と言ってきたとして…
「お!ありがとう心!」「忠告サンキュー!心!」「お、これは“お前は無能だ物語”ですね。ありがとう!」
このように一度認識してあげれば、それでお終いです。
そのままにしておきましょう。
それ以上こちらから戦いを挑む必要も、追い払おうとする必要も、注意を向ける必要もありません。
それらの思考がやってきては去っていくに任せましょう。
目の前の現実にこそ注意をむけ、エネルギーを注ぐ事の方が大切です。
イメージ(映像、画像)の脱フュージョン
ここまでは、心が語る物語、言葉を中心にお話を進めてきましたが、心が我々に投げかける不快な思考は言葉だけではありません。
時にはイメージ(映像or画像)も駆使して我々を思考とフュージョンさせようとします。
過去、実際に失敗した、屈辱を受けた等の不快な記憶の映像イメージ…
将来、病気になるかもしれないと恐れ、自分が病院のベッドで苦しい闘病生活を送るイメージ…
過去の事でも未来の事でも、基本的には同じです。
「今ここで、起こっていない事」は全て、心がみせる妄想です。
わざわそんなものとフュージョンする必要もメリットもないのです。
心が見せてくる様々なイメージとフュージョンしてしまうと…
- イメージを真剣に捉えてしまう。
- イメージに全ての注意を向けてしまう。
- イメージが今、現実に起こっている事のように反応してしまう。
イメージから脱フュージョンできると…
- イメージが単なる絵以上のものでない事を理解している。
- こうした想像の絵が自分を傷付けることは無いと知っている。
- イメージが助けになる時だけ注意を向ける。
これは是非とも脱フュージョンしておきたいです。
では、そんなイメージに対する脱フュージョンのテクニックをご紹介します。
*これからご紹介するテクニックは、ただただ不快に感じる、イメージが行動を起こす障壁になる…といった程度の不快なイメージには有効ですが、トラウマを呼び起こし発作を起こしてしまうような強烈なイメージに対しては一人で行わない方が良いです。そのようなトラウマを抱えている場合は必ず適切な訓練を受けた専門家に相談して、脱フュージョンの方法を学ぶことをお勧めします。
繰り返しあなたを襲ってくる不快なイメージを10秒程度の「ビデオクリップ」に凝縮します。
例えば、何かに失敗するイメージが頭から離れないのであれば、そのイメージをビデオクリップにし、部屋の反対側においてあるTVに映っているところを想像します。
そしてそのTV画面に映し出されたイメージで遊んでみるのです。
横にしてみたり、逆さにしたり、横に引き伸ばしたり…イメージが動画であれば、逆再生したり、スローモーションにしたり、その両方やってみたり…今度は倍速再生したり。
色調も変えて遊んでみましょう。
白黒にしたり、明るさをあげたり、色彩を反転させ滑稽なほどケバケバしい映像にしてみましょう。
どんどん遊んであげましょう。
目的はこのイメージを消し去ろうとするのではなく、あるがまま、無害なものとして見ることです。
・字幕をつける
TV画面に映し出されるイメージに字幕を付けてみましょう。
なるべくユーモラスな字幕が好ましいです。
例えば、ビデオが再生されるときに題名テロップをつける…「爆笑!大失敗ストーリー」のような。
実際に失敗しているイメージが流れる時には「あらら、またやっちゃった〜⭐️」みたいなテロップを流す。
・サウンドトラックをつける
イメージに好きな音楽をつけましょう。
ロック、JAZZ、ヒップホップ…色々試してみましょう。
心が軽やかになる軽快な音楽が良いですね。
運動会の定番曲「天国と地獄」みたいのもいいかもしれません。
・場所を変える
今までTV画面に映していたイメージを、今度は色々な場所に映してみましょう。
例えば、駅に設置してある巨大モニター、街頭広告や車の窓、道ゆく人のTシャツ、横断幕やビルの窓…あらゆる所に映してみましょう。
週刊マンガの連載としてイメージしても効果的かもしれません。
無限の想像力を発揮して色々試してみましょう。
これらを試してもまだネガティブなイメージとフュージョンしていると感じる、つまりその映像を思い出すと恐怖を感じ、足がすくみ、不快なイメージが頭を占領してしまうような場合、ここで紹介したテクニックを一日に最低五分はやって見ることをお勧めします。
イメージはあくまでイメージに過ぎず、「そのままでは現実に何の影響を及ぼす事は無い」…と理解し、認識することが大切です。
脱フュージョンの目的
「脱フュージョン」を行うと、これまで頭の中を占領していた不快な思考から解放され、視界がクリアになり心が軽くなったかのように感じることがありますが、それはあくまでも脱フュージョンを行った副産物的な効果であり、脱フュージョンにおける本当の目的ではありません。
もし「不快な思考を追い払う、避ける、抑え込む」事を期待して脱フュージョンを行ったとしても、それらは一時的な効果であり、何もかも終わったわけではありません。
ネガティブな感情や思考は“消し去る”事はできないのです。
それらはすぐに戻ってきて、またフュージョンしてしまいます。
そうなってしまっては
また不快な思考が!?脱フュージョンなんて意味がないじゃないか!!
となり、再び悪循環を巡る羽目になります。
脱フュージョンの真の目的はネガティブな思考を消し去る事では事ではなく、「アクセプタンス(受容)」する事です。
ネガティブな思考を無理に押さえつけたり、避けたり、追いやるのではなく、適切な形で(脱フュージョンして)受け入れる…それが「アクセプタンス(受容)」です。
終わりに…次回予告
さて、今回は「脱フュージョン」に焦点を当てて深掘りしてきましたが、脱フュージョンのテクニックはこちらでご紹介させて頂いたテクニックだけで無く、もっと色々な方法があり、自分でアレンジしてテクニックを作り出すことも可能です。
「不快な思考や感情をアニメのキャラクターに喋らせる」という面白い脱フュージョンテクニックもあります。
しかし、それら全てをここで書き述べる事は現実的に厳しいので、最後に原著のリンクも貼らせて頂きます。もっと詳しく知りたい方は是非、原著を手に取りACTの世界に触れて見てください。
今回ご紹介した、湧き上がる不快な思考に対して「心よ!ありがとう!」と即座に感謝するテクニックはシンプルかつ汎用性が高いので、まずはこの辺りから試していってはいかがでしょうか。
そして繰り返しになりますが、脱フュージョンを「良い気分になる為」に行わないでください。
脱フュージョンは、不快な思考を「アクセプタンス(受容)」し、己の「価値」に見合う行動を選択する為のテクニックです。
では、如何にして脱フュージョンした不快な思考や感情を「アクセプタンス(受容)」していくか…これにも色々な手法がありますので、その詳細は次回にご紹介させて頂きます。
というわけで次回はACT02「アクセプタンス:受容と拡張」になります。
お楽しみに!
少々長くなりましたが、お付き合い頂きありがとうございました!
それではまた!
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