耳ある人でありたい

2022年2月14日

さて、今回は実際に起きた、とあるエピソードを交え、「人が何かを盲目的に信じ、依存する」時、どのような心理的メカニズムが働いているのかというお話をしていきたいと思います。

大洪水の予言

1954年、シカゴの地元新聞にとある奇妙な広告が出されました。

『シカゴに告ぐ、惑星クラリオンからの予言ー大洪水から避難せよー』

この広告を出したのは自称霊能者の主婦マリオン・キーチ

キーチはある惑星の「神のような存在」から次のようなメッセージを受け取ったと言います。

神様のような存在

『1954年12月12日の夜明け前、大洪水が発生して世界が終末を迎える』

と…

キーチはこの予言の内容を既に友人達に伝え、その中の何人かは家族の反対を押し切り家を出て、仕事も辞め、キーチと共に暮らしていました。

新聞記事が出た頃には、キーチはすでに彼らの教祖様的な存在なっており、信者たちはみな「世界が終わる直前、真夜中に天から宇宙船が現れ、キーチの家の庭に降り立ち、信じるものだけを救ってくれる」と信じ込んでいました。

社会心理学者フェスティンガーの予想

さて、件の新聞広告を目にし、猛然と好奇心をそそられたのは社会心理学者のレオン・フェスティンガー

フェスティンガーはこのカルト集団に信者の振りをして潜入すれば、世界の終末が訪れるまでの彼らの行動が観察できると考えました。

そして、彼が何より興味があったのは「予言が外れた後、信者がどんな行動をとるか」でした。

普通であれば「キーチはインチキ詐欺師だった」と認め、元の生活へと戻る他ない…と考えます。

しかしフェスティンガーは「信者達は、キーチを否定するどころか以前にも増して信奉するだろう」と予想します。

そんなまさか…

予言の日

フェスティンガーは信者の振りをして、キーチのカルト集団へ難なく潜入することができました。

かくして予言の当日。

約束の真夜中になっても一向に宇宙船は現れません。

信者達は最初のうちは、時々空を見上げ宇宙船が現れるのを確認していましたが、真夜中をすっかり過ぎると、一様にどんよりとした顔つきになっていきました。

しかし、やがて何事もなかったかのようにそれまで通りの行動を始めます。

つまり、フェスティンガーの予想した通り、大予言を外した教祖に誰一人として幻滅する事はなかったのです。

そればかりか、以前より熱心な信者になる者も…

どうして、このような事が起こるのでしょう。

失敗の再定義

信者達が見たのは、紛れもない教祖様の大失敗です。

教祖のキーチは「大洪水で世界が終わりを迎え、宇宙船が救いにやってくる」と予言しましたが、実際は何も起こらなかった。

しかし信者達は自分の信念を変える事なく、事実の「解釈」を変えてしまったのです。

フェスティンガーはこうした信者達の振る舞いを『失敗の再定義』であると指摘しました。

実際に信者達は予言が外れた後、こう主張しました。

神は私たちの行動にいたく感心して、この世界に第二のチャンスを与えてくれた

と。

彼らは「自分達が予言を流布したからこそ、神が世界を破滅から救ってくれた」と本気で思っているのです。

多くの場合、人は自分の信念と相反する事実を突きつけられると、自分の過ちを認めるよりも、事実の解釈を変えてしまいます。

次から次へと都合の良い言い訳を並べ、自分を正当化してしまいます。

時には事実を完全に無視することすらあります。

認知的不協和

どうしてこのキーチのカルト集団の信者達のような事が起こるのか…

カギとなるのは、フェスティンガーが提唱した概念である「認知的不協和」です。

認知的不協和

自分の信念と事実が矛盾している状態、あるいはその矛盾によって生じる不快感やストレス状態を指す

人はたいてい「自分は賢くて、筋の通った人間である」と思っています。

いつも自分の判断が正しく、簡単には騙されたりしないと信じています。

だからこそ、その信念に反する事実が出てきたときに、自尊心が脅かされ、おかしなことになります。

問題が深刻な場合は尚更です。

矛盾が大きすぎて心の収拾がつかず、苦痛に感じるようになるのです。

二つの道

「認知的不協和」に陥ったとき、解決法は二つあります。

1.自分の信念が間違っていたと認める

これが中々難しいのです。

単純な理由です。

自分が思っていたほど有能ではなかったと認める事が怖いからです。

2.自分に都合のいい解釈をつける

こちらは簡単です。

事実をあるがまま受け入れず、自分に都合のいい解釈をつける。

あるいは、事実を完全に無視したり、忘れてしまう。

そうすれば、信念を変える事もなく貫けます。

ほら見ろ!私こそ正しい!

キーチの信者達の場合

キーチの信者達は何もかも捨ててキーチと暮らしていました。

仕事を辞め、家族とは勘当同然で別れ、世間からは嘲笑されました。

自らを自らの信念で追い込んでしまっています。

簡単に後戻りはできない、ここで誤りを認めるのは自らの沽券に関わります。

それゆえキーチを教祖だと信じ続けました。

「自分はペテン師を教祖と崇めていた」

これを認めるのは、屈辱であり、苦痛です。

だから失敗を成功だと思い込む他なかったのです。

事実さえ認めなければ、あらゆる矛盾が解消され、自分は賢く、筋の通った人間だと信じ続ける事ができるのです。

「意図的」でないことが厄介

このエピソードはフェスティンガーの分析を基に、「これこれこうであるから、こういう状況になった」と、ロジックで記述することができますが、厄介なのは「認知的不協和」に陥った当人は、いちいちこの様な"自分に都合のいい状況”を計算してロジックで行動していないという事です。

まず「認知的不協和」に陥ると、それ自体を自覚していません。

意図的に都合のいい真実を選んでいるのではなく、己の自尊心を守る為に、無意識に結果的に自分にとって都合のいい選択と行動を取り続けてしまうのです。

現代の認知的不協和

さて、このキーチのカルト集団は1954年の出来事ですから、大昔とは言えないものの結構前の出来事ですね。

現在でもカルト集団とは、あるにはありますが、それよりも恐ろしいものが身近に存在しています。

当時はメディアといえば、それこそキーチも利用した新聞やその他の紙媒体がメインでしたでしょう。

しかし、我々の生きる現代には常に手元にメディアがあります。

いつでも世界中のあらゆる情報を自分の掌で目にする事ができます。

まさに情報の洪水です。

ついつい偏った情報ばかりを漁って、特定の何かに依存し、相反する意見を目にして「認知的不協和」に陥らないように気をつけたいものです。

少しTwitterなどを除いてみれば、己にとって都合のいい事ばかり発言して、自分を正当化している人がなんとも多い事か…

陰謀論やら、反マスクデモやら…目も当てられません…

プライドは曲者

特定の何かに異常に執着し、依存状態に陥ると、やはり言動がおかしくなっているので、周囲の人は心配して色々とアドバイスしたり、諭そうと試みると思いますが(キーチの信者の場合は反対する家族など)

それらが「認知的不協和」を引き起こす切っ掛けとなってしまします。

「認知的不協和」の状態にある人は、他人に意見されると反発を強め、ますます己の信念を強固にしてしまう傾向があります。

聞き耳もたぬので、何を言っても無駄…むしろ火に油を注ぐだけとなってしまいます。

そうなってしまっては、何もかも滅茶苦茶です。

これまで築いてきた人間関係も破綻していくでしょう。

そうはなりたくないですよね。

また「認知的不協和」を引き起こしやすい人の特徴としては、比較的にプライドが高い人が多いです。

他人より自己評価が高い故に、人の話を聞けない「自分は常に正しい」と思っている事が原因ですね。

「自分が間違える筈はない」と思っているので、他人に意見されると、どんどん意固地になって、都合のいい言い訳を次々に生み出し自分を正当化していきます。

プライドとは往々にして自分の視野を狭める壁となります。

成長を止めるな

自分自身の可能性を諦めた人、自分の限界を決め込んで自ら成長する事を放棄した人は、今現在の伸び代の無くなった自分を守ろうとするあまり「認知的不協和」を引き起こし、必要以上に自分を大きく見せようとする傾向があるそうです。

つまりどういうことかと言えば…常に他人に対して上から目線になり、何かとマウントを取りたがる人間になってしまうのです。

めっちゃウザい!

この先の伸び代もないので、新しいことにも挑戦せず、ノーリスク且つ誰にでもできるような簡単な仕事しか選ばなくなります。

簡単な仕事だけ片付けて「俺はやっている、できる人間」アピールだけして、踏ん反り返る事しか出来なくなります。

買い出ししか出来ないのに、めちゃくちゃ偉そうにしている人間なんて、側からみれば恥ずかしいだけですよね。

自分で自分の可能性と成長に見切りを付けず、常に謙虚に何でも吸収し、新たな自分を追い求めましょう。

失敗は宝

「認知的不協和」に陥る入口は“失敗を恐れる”事であるとも言えます。

自分が失敗したと他人に思われるのが、恐ろしいので、事実の解釈を捻じ曲げてしまうのです。

失敗を認めず、失敗を闇に葬り続ける人間に進歩はありません。

「失敗とは成功のもと」との格言が示す通り、人は失敗から学び進化してきました。

今自分の身の回りにある全ての物は、どれもこれも失敗の結晶です。

失敗とは進化を促す宝です。

失敗を恐れる必要もありませんし、失敗は恥でもなんでもないです。

常に失敗から学び、進み続けるだけです。

これは一個人の問題でもありますが、企業にしてもそうです…

ミスを罰する環境であればある程、ミスを隠蔽し…いつまで経っても成長しない企業となります。

成長する企業は、ミスを罰せず、「失敗」を次のニーズに応える糧と考えます。

終わりに〜聞く耳を持ちましょう〜

何かに依存し、認知的不協を引き起こさない為には、やはり素直に「人の話を聞く」事が大事なのではないでしょうか。

相手がどんな立場の誰であれ、どんなに小さな意見であれ、聞き入れられる耳を持つこと、心に余裕を持つことを意識しましょう。

少しでも「そんな話聞きたくない!」とか思ってしまったら、認知的不協和になりかけている兆候かもしれません。

「もしかしたら間違っているのは自分かもしれない」いつでもその疑いから目を背けず、偏らない視点で世界を見据える事が大切です。


自分の過ちを認めるのは、確かに多少なりとも恥ずかしいかもしれません…

しかし、一番恥ずかしいのは、自分の過ちを頑なに認められず、意固地になって自分にとって都合のいい主張を並べ立て、喚く姿です。

論語にこんな言葉があります。

あやまちてはあらたむるにはばかることなかれ」

過ちを犯したと気づいたら、自分の面目や他人の目など気にせず、ためらうことなく改めるべきである。

という事です。

大事なのは謙虚さ、何事にも素直に耳を傾け、人生の舵取りをしていきましょう。

というわけで、今回は以上となります。

ではまた!良い人生を!