「親ガチャ」について思うこと

2021年11月13日

最近はソシャゲの影響か、なんでもガチャに例えられ、「親ガチャ」や「上司ガチャ」なる言葉も横行しているようで、私のような中年はモヤモヤしてしまいます。

自分の境遇や置かれた環境も、いちいち「ガチャ」などと例えるのは、なんとも短絡的で軽薄な思考に思えてなりません。

これも現代の「若者言葉」の一つとして捉えていいのかどうか…ふざけて使っているだけなら、まぁそんなもんなのかな?とも思わないでもないですが…

私はソシャゲを一切やっていないので、私が時代遅れなだけかも知れず、ただの若者言葉にオッサンがいちいち目くじら立てるな!とか言われそうですが…。

しかしながら、人生のアレもコレも「ガチャ、ガチャ」と言う風潮はあまり好ましくないので一石投じておきます。

そんなこんなで、私なりに「親ガチャ」について思う事をツラツラと屁理屈を述べましょう。

ガチャとして因果関係が逆ではないか?

「親ガチャ」と言う言葉ですが、コレは生まれた家庭環境が裕福でなかった、自分の望むモノではなかったと言うような場合に使われるようですが…。

百歩譲ってガチャと言う表現を許容するとしても、まず、ガチャとして因果関係が逆ですよね。

生まれてくる前の子供がガチャなんて引きようがありませんから、親がガチャを引かない限り「子」は存在すらしません。

ガチャの結果が「子」で…ガチャを引いたのが親でしょう。

つまり「親ガチャ」なんておバカな言葉を使う子供を引いてしまった親は「子ガチャ」に失敗したとも言えます。

環境や境遇に責任を押し付けるのは無能の証

人生のあらゆる事を「ガチャ」に例えてしまう危うさは、なんでも環境や境遇に責任を押し付けてしまい、判断基準や価値観が軽薄になり、己の能力を極端に下げてしまう事になりかねないと言う所です。

恵まれた環境というのは確かに魅力的に映ると思いますが、そんなものは比べるだけ不毛です。

いつだって「隣の芝生は青く見える」ものです。

私も少年の頃は他人の家庭を羨む事もありましたが、いつしか大人になるにつれて「環境なんて他と比べても何の意味も無い」と気付く事が出来ました…。

自分を取り巻く環境なんて自分の力で如何様にも変えていく事が出来ます。

「ガチャ!ガチャ!」と言っていると、何もかも運頼みで、「僕は自分では何一つ出来ない無能です」と自らネガキャンしているのと同じです。

今の親がいなければ"あなた”は存在しない

至極当たり前な事ですが、今のご両親がいなければ"あなた”は存在しません。

他人の家庭環境や境遇を羨んで「親ガチャに失敗した」などとほざくのは勝手ですが…。

では、そんなあなたをタイムスリップさせてもう一度親ガチャさせてあげましょう。

見事、今回は親ガチャ大成功!

誰もが羨む大金持ちの家の子に生まれ変われました。

しかしそこに生まれてきた子は"あなた”ではありません。

違う環境で違う親から生まれてくる子は全くの別人です。

今、あなたが鼻くそをほじりながら「親ガチャ失敗した〜」などとほざけているのは、ご両親と育ってきた諸々の環境があっての事です。

“あなた”が"あなた”であることが出来る"あなた”の人格や自我は、今のご両親と環境が作り上げた賜物です。

うだうだとなんでもかんでも親のせいにして「ガチャガチャ」と言っている暇があるなら、まずは"あなた”自身を磨き、自分の力で環境を変える事に専念したほうが良いのでは無いでしょうか?

親は絶対的に正しくは無いが…

ここまで今の"あなた”があるのはご両親のおかげと書いて来ましたが、それは因果関係のことを述べているだけあって、全ての親が絶対的に正しくて、従うべき存在と言っているのでありません。

世の中には酷い親というのも沢山いるでしょうし、それはそれで心を痛めますが、別に解決すべき問題です。

あくまで事実として"あなた”の存在は親なくしてはあり得てないと述べているだけです。

変化していく事と、間違った認識が蔓延はびこるのは別

この世は諸行無常…不変であるものは存在せず、常に移ろい変化していく…。

とりわけ現代社会はここ数年でスマホの台頭からデジタル機器の進歩によって生活様式は目まぐるしく変化してきました。

コレからもどんどん変化のスピードは加速していく事でしょう。

それに合わせて言葉使いや常識も変化していく事は否めませんし、そうあって然るべきでしょうが、「親ガチャ」等の論理の破綻した言葉はしっかりと正すべきであると私は思います。

変化していく事と、間違った認識が蔓延はびこるのは別です。

そうなると、じゃあ何が正しくて、何が間違っているかと言う問題も出てくると思いますが、コレについては論理的に正しいか正しく無いかです。

明らかに論理的におかしな「ガチャ」等と言う軽薄で稚拙な言葉が現実社会に良い影響を及ぼすとは到底思えません。

自分の至らなさを、無能である責任を、環境や周囲に全て押し付けてしまうような言葉は消えてしまう方が世の中の為です。

「ガチャ」はゲームの中だけでいいでしょう。

現代スマホ社会、「映え」の弊害

言うなれば「親ガチャ」とは、お金持ちの家に生まれたかったと言う思いの反映でしょうが。

確かにこの資本主義社会の中において、お金はあったほうが良い場面も多々あるとは思いますが、別にお金なんて無けりゃ無いでどうにでもなるもんです。

しかしまぁ、お金の価値については、それこそ人それぞれでしょうし、私が個人的に断定できる事でも無いのであまり語りませんが、それにつけても現代社会は「お金さえあれば」という考えが少々先走りしすぎているように思えてなりません。

近年のSNSでの「映え」という価値基準も子供たちに、あまりよろしく無い影響を与えています。

何がなんでも「映えなければならない」という、ある種の強迫観念に囚われ、煌びやかに「映え」続ける為に浪費を続ける。

「映える」には、やはりそれなりの資金力が必要です。

反対に言えば、お金さえあれば「映える」事は比較的容易なのです。

学生がアルバイトで稼げる額には限度ありますし、アルバイトできる年齢に達してない小中学生などは親の経済力に頼るしかありません。

そこで、親の価値を経済力で測る「親ガチャ」なんて馬鹿げた言葉が出てくるのでは無いでしょうか?

人生経験、社会経験に乏しい子供の視野と世界観は狭く、「映え」なければ生きている意味がないと思うのかも知れませんが、人生というものは決してそうではないと、子供たちの世界観と視野を広げてあげ、人生に可能性を見せてあげていく事が大人の責任でもあると思います。

本来、人生(命)の価値とお金の価値は「=」ではありません。

お金がなければ「映え」れない、「映え」れなければ人生の価値もそれだけ下がると子供たちに思わせてしまうのは現代スマホ社会の弊害であるとも言えます。

人生は別に「映える」必要なんかありません。
必死こいて「映え」ようとしている姿ほど滑稽なものはありませんし、カッコ悪いです。

それらをしっかりと子供に伝えられる親こそ「親ガチャ」のSSRでは無いでしょうか。