神なき世界の超人
19世紀後半、ヨーロッパでは機械文明の発展と共に合理主義的な精神が発達しましたが、その影響は人々に暗い影を落とすことにもなりました。
合理主義による機械文明は、人間を交換可能な部品のように扱い、過酷な労働が人々から人間の尊厳を奪い去っていきます。
合理という歯車に無理やり噛み合わされ、疲弊しきっていく人々の間には孤独感や無力感が渦巻きました。
また、合理的に説明のつかない〈神〉という存在に対する信仰心は薄れ、ヨーロッパ中に無神論が蔓延していく事となります。
比較的、信仰に寛容な現代日本で生きる我々にとっは、無神論であろうと「何を信じようが信じまいが自分の勝手でしょ?」くらいの感覚かと思いますが、かつてのヨーロッパ(19世紀)では全ての価値の根幹が〈神〉によって支えられていました。
人間を作ったのも神であり、人の運命も神の手が預かり、朝に日が昇り、夕には月が昇り、夜には星が輝く、あらゆる自然現象も、世の中のあれもこれも全て、神の御業とされていた時代です。
そんな時代に無神論の蔓延は、社会に計り知れない影響を及ぼしました。
〈神〉の否定は、根源的な価値の否定に他ならず、人間が生きる意義そのものの否定につながり、虚無(ニヒリズム)が人心を蝕み、人々は生きる意義を見失っていきます。
ラテン語の「nihi(無)」と言う言葉から生まれた概念。
絶対的なものや究極的な存在を認めない立場。
虚無主義と訳されるように、「この世界は虚無である。なんの意味もない」と生への虚しさが付きまといます。
絶望や退廃が世界を覆い、全ての価値が無と化す〈ニヒリズム〉が世界を支配しました。
無神論によって人は生きる意義を見失い、今この世にあるのは、ただ虚しさのみ…
そんな中、ヨーロッパ文明の矛盾や、歪みを鋭く抉り出し、人間が本来の持つ生き生きとしたあり方を示すため
「神は死んだ!」
と高らかに宣告する者が現れます。
そう「ニーチェ」です。
牧師の息子として生まれ、大学では古典文献学を専攻し、古代ギリシャに理想を見出す。ショーペンハウアーの主著に出会い心酔、同じくその信奉者であった作曲家ワーグナーと親交を結ぶも、やがてニーチェ自身の考え方の変化により、ショーペンハウアー、ワーグナーを「ロマン主義者!」と一方的に批判し始め、友情は破綻。1889年に発狂し、以後理性が戻らないまま翌年、他界。著書に『ツァラトゥストラ』『この人を見よ』等がある。
ニーチェは〈ニヒリズム〉に陥り、絶望や退廃に逃避する人々に対し鋭い批判を加えます。
神の存在は、信者に死後の幸福を約束し、生きる意味と希望を与えますが、無神論による神の否定は人々を虚無感に陥れました。
生きる希望も見出せずに絶望や退廃に逃避する人々に対して、ニーチェは「神は死んだ!」と宣告します。
またニーチェは世界は無目的で不毛なものであるとし、それを嘆くのではなく、自らの運命として引き受け、虚無そのものを生きる強さを持て!と人々を鼓舞します。
さぁ、では今回はそんなニーチェと「ニヒリズム」について解説し、最後に私の屁理屈をねじ込んで行こうと思います。
ルサンチマン〜権力への意志〜
ニーチェは生きとし生けるものみな全て、その活動の根底には「権力への意志」を持っているとします。
「権力への意志」とは、しばしば「力への意志」とも言い換えられますが、力と言っても単純な腕力の事ではなく、権力であったり、財力であったり、他者を支配下に置く事ができる力のことであり、生きとし生けるものは全てその力を求めるものであるとニーチェは言います。
強者は力で弱者を支配し、弱者は強者を妬み、力の理論を捻じ曲げ強者を引きずり降ろそうとする。
強者も弱者も、誰もがみな「権力のへの意志」で行動していると言います。
殊にニーチェは強者と弱者という発想において、弱者を強く批判します。
普通であれば、力を振りかざす強者が批判され、力の持たない弱者が守られるべきでは?と思いますが。
いかなる理由でそうなるのか見ていきましょう。
ルサンチマン
弱者が強者に対して抱く嫉妬、怨恨、憎悪、劣等感…ニーチェはそれらを総称して「ルサンチマン」と呼びました。
ルサンチマンはニーチェが生み出した言葉ではなく、元々フランス語にあった言葉なのですが、ニーチェが上記のような意味合いで使い始めたことから「ルサンチマン=弱者の嫉妬」という概念が生まれました。
富裕層を妬む貧困層を例えとするなら…
お金持ちの大豪邸で開かれたパーティーに招かれた友人(貧乏)が「こんな大きな家に住んでも掃除が大変じゃないか、使わない部屋なんてあっても意味ないじゃないか、こんなインテリアにそんな価値があるのか?同じような物が百均で買えるじゃないか」と妬みからついつい価値判断を転倒させる言動をとってしまう…
これが「ルサンチマン」です
道徳はルサンチマン
ニーチェは「権力の意志」において、道徳を否定します。
力と力の関係であれば力で勝負すべきであるとします。
力と力の勝負に、力以外のものに訴えて、弱者が集まって強者を引きずり降す。
強者を引きずり降すのは自分達が支配者側につきたいからであるにも関わらず「自分達は弱いが、優しさや正しさを知っている、だが強者は往々にして粗暴であり高慢であり、コレは悪である、許されるべきではない」として、弱さを正当化し、価値を転倒させる。
道徳とは弱者がルサンチマンによって自己正当化するための欺瞞であるとニーチェは言います。
現代でも芸能人の不祥事のNEWSが流れる度に同じような事が起こりますね。ここぞとばかりに寄ってたかって…これもルサンチマン…
素直に己の「権力への意志」を認め、己の力で勝負すべき所に、道徳なんて持ち出すのは「権力への意志」を偽装しているに過ぎない。
という事ですね。
強者たれ
誰もが「権力への意志」を持っているにも関わらず、ルサンチマンによってそれを偽装し、弱者が自己正当化する事をニーチェは非常に嫌います。
力には誠実であれと言うのです。
「力で勝てないのなら、勝てるように力を磨けばいいじゃないか」と言うのがニーチェの主張する所です。
道徳を求めるのは、牙を持たぬ弱者が「自分達こそ正しい」といって群れているのに過ぎないと批判し、強者として常に自分自身の力を増大させろ!というのですが…
果たして、そんな事が可能な人間が存在するのか…
ニーチェのニヒリズム「永劫回帰の超人」
ニーチェは当初、少し先輩にあたる哲学者であるショーペンハウアーの影響を多大にうけ、ショーペンハウアーの「生きることは苦であり、苦を芸術によって一時忘却しながら生きるより他ならない」という説を支持しますが、後に「芸術に逃避するのはロマン主義だ!」とし、痛烈にショーペンハウアーを批判します。
芸術による救済という逃げ道を自ら断ったニーチェは「それではなぜ虚無を生きるのか」という壁を「生きる事に意味は無い、無目的に同じことを永遠に繰り返すだけだ」という発想を持って乗り越えようとします。
永劫回帰
ニーチェによると、我々人間は無目的に日々同じことを繰り返しているに過ぎないと言います。
日々、瑣末な違いはあれど、そもそも生きる事に意味など無いのであり、であれば日々のアレやコレにも当然意味は無くなります。
であるからして、人生とは無目的で不毛な日々を永遠に繰り返しているに過ぎないとし、「人生=永劫回帰」という結論を導き出します。
この「永劫回帰」は日々の繰り返しの事だけを言っているのではなく「人は死んでもまた同じ人生を繰り返す」という輪廻観に近い発想にまで飛躍しますが…
流石にそれは…
超人
さて、いよいよニーチェの代名詞とも言える「超人」についてです。
「超人」とはニーチェの著作『ツァラトゥストラ』の中で集中的に使われた概念で、ニーチェは「人間とは猿から"超人”へ向かう中間にあるもの」としています。
一体「超人」とは、なんなのかと言えば、これはニーチェ自身も明言しておらず、概念だけが宙に浮いた状態ではありますが…
ここまで書いてきた一通りの事を難なくやってのける新たな人間が超人である…と受け取ってもいいのではないでしょうか。
つまり…一般的なニヒリズムのように、神なき世に生きる希望も見出せずに絶望や退廃に逃避し消極的に生きるのではなく…
この世に神のような根源的な価値など存在しない、その虚無を受け入れ、無目的で不毛な永劫回帰と知りながらも強者として積極的に生きる者こそ人間を超越した「超人」である。
と言えるのではないでしょうか。
パースペクティブ主義
“パースペクティブ”とは、ルネサンス時代の絵画技法である"遠近法”のことで、どの角度で対象を見るかによって、絵画の描き方が異なるという物です。
これを人の認識に当て込んだ考えが「パースぺクティブ主義」です。
全ては解釈
物事の認識は見る角度によって変わってしまう。
同じものを見ても、それぞれの人がそれぞれの立場に応じて違った解釈で認識します。
ニーチェは言います「事実は存在しない、全ては解釈である」と。
つまり道徳も、全ての人に共通する、全ての人が良しとする絶対的な価値基準などではなく、あくまでそれを理解する人の解釈にすぎないと主張したのです。
神は人が創り出した?
神がいた世界では、神が全ての価値の根源であることになるのですが「神は死んだ」世界では人間自身が価値を創り出すことになります。
ニーチェは我々が神だと思っていたものは人間が創り出したに過ぎないと言います。
- 人(個人)が認識のあり方を決定し
- 人(個人)が価値のあり方を決定し
- 人(個人)が対称の内に自身が持っていたものを見出す
コレがニーチェの発想の根幹になります。
ニーチェ自身もパースペクティブ
ニーチェの発想によると、人はそれぞれ異なったパースペクティブを持つことになり、どのパースペクティブが正しいとも言えません。
「事実は存在しない、全ては解釈である」なのです。
つまりニーチェの考えや主張、思想も、それを見る人それぞれのパースペクティブによって、千差万別の解釈があり、ニーチェ自身も敢えてそれを狙っている節があります。
哲学のクリティカル
ニーチェについては色々と語ってきましたが、非常にザックリと纏めただけであり、私は個人的に「要約」というものが好きではなく、私のパースペクティブによるニーチェを語っただけに過ぎませんし「コレがニーチェだ」とは言いたくないし言えないので、ニーチェについて知りたい方はニーチェ自身の著作を手に取るか、関連書籍をご参照ください。
さて、私の極めて個人的な見解で物を言わせていただくと、西洋哲学のクリティカルな部分は「やれ〇〇主義だ」「それは××派だ」と、思想を色々とカテゴライズして括ってしまいがちで、一貫性に重きを置き、その中にしか答えを求めない事でもあると思うのですよ。
とはいえ、己の拠って立つところも無く、フラフラと芯のないのも考え物ですが…
フラフラしてて申し訳ありません
これもパースペクティブ所以でしょう。
それはさておき、ではニーチェのクリティカルな部分は何かといえば…
「人生に意味はない」としながらも、「人生に意味はない」という"意味付け”をしてしまったが故に、出口を見失っているように私は思います。
私が偉そうな事を言える立場でもありませんが…
僭越ながら、私が常日頃こちらで主張させていただいている「生まれたてきた理由もないし、人生に意味もない」とは、そのまま「意味がない」ただそれだけであり、意味がないからこそ、人生にはあらゆる矛盾も孕みます。
しかし矛盾がなんだっていうのでしょうか。
人間とは矛盾なるものです。何もかも理路整然と説明できるものではありません。
この世の全てに意味がない、と同時にこの世の全てが生きる意味でもある。
この矛盾をただ生きるのみです。
終わりに〜積極的に生きる〜
仏教思想の根幹はニヒリズムに通ずる所があります。
諸行無常、諸法無我、五蘊無我などの「この世に実体は存在しない」という思想は、まさに「虚無」に近いと言えるでしょう。
仏教思想ではこの世の全て、人の肉体も精神も、それらを模る要素が仮に束になって集まっているだけに過ぎず、実体を持たない「空」なるものとします。
しかし「虚無」と「空」は似て非なる概念です。
「虚無」は"何も無い”と言う概念ですが、「空」は"有と無を内包する”概念です。
少し横道にそれました…「空」についてはまた改めて
哲学は役に立たない?
話を戻して…
古来より哲学とは暇人が色々と理屈をこねくり回すだけの「役に立たない物」とされてきました。
確かに実生活における"役に立つ物”とは「食うため」の活動でしょう。
「食うため」とは即ち生きるためです。
外的要因(飢餓や、肉食獣による捕食や、戦争や、疫病)によって生きるか死ぬかと言う時に「何故生きるのか」なんて哲学的な考えは必要ないでしょうし、役に立たないでしょう。
「何故生きるのか」ではなく「いかに生き延びるか」が重要でした。
しかし、それら日常的に「生きるか死ぬか」という時代は既に終焉しています。
現代こそ「何故生きるか」考える
現代社会では科学や医療が飛躍的に発展し、加えて飽食の時代です。
現代日本社会においては日常的に「生きるか死ぬか」という状況はほぼ無いと言っていいでしょう。
貧困問題と肥満問題が混同し、命の危機に瀕してもいないのに自ら命を絶つ者が一定数いるという矛盾を抱えた社会。
こんな現代こそ「何故生きるか」考える必要があるのではないでしょうか。
哲学は役に立たなくとも、物事の捉え方を、ひいては人生を豊かにします。
ニーチェは「後の2世紀はニヒリズムの時代になる」と予言しました。
ニーチェ(19世紀)より後の2世紀とは現代の事…今、ナウ!です。
現代ではあらゆる場面で「多様性」が謳われ、誰もが各々の価値観によって生きている…
根源的で絶対的な価値は完全に鳴りを潜め、まさに現代はニヒリズムの時代と言えるでしょう。
この世は「虚無」としながらも力強く積極的に生きる事を提唱したニーチェ。
根源が「虚無」故に様々な価値観に溢れかえり、情報が錯綜する現代は混沌を極めています。
今こそ我々はニーチェに倣い、雑多な情報に翻弄され物事の本質を見失う事なく、力強く積極的に生きる「超人」になるべき時かもしれません。
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