グッバイ!スピリチュアル

2021年12月4日

私は脚本という仕事において、よく便宜上「魂」や「怨念」のような概念を引っ張り出してきますが、それは物語として都合がいいからです。

ただそれだけの事です。

これら「魂」や「霊魂」「生まれ変わり」など所謂スピリチュアル的な概念はフィクションの中だけで十分であり、現実世界に顔を出すのはちょっとご遠慮願いたい、という今回のお話です。

では我々には「魂」などと言うものが果たして有るのか無いのか、仏教思想の理論から推測していきましょう。

縁起えんぎ

仏教では、この世の全ては「繋がりで成り立って」おり、繋がりから独立して存在しているものは無いとします。

あるものと、あるものが繋がって一つの物体であり、事象であったりを生じたり、滅したりしているに過ぎない…これを「縁起えんぎ」と言います。

縁起はこのサイトで度々持ち出してきますが、あらためて簡単に説明しておきます。

縁起とは「因縁生起いんねんしょうき」の略であり、

この世の事象は全て…

因(要因)+縁(諸条件)=生起(結果)」

という方程式によって成り立つということです。

少しわかりやすくするために、花の縁起を見てみましょう。

種(因*要因)+日光、土、水(縁*諸条件)=花(生起*結果)

という具合です。

これが縁起です。

諸行無常しょぎょうむじょう

この世は常に移ろい変化している。

永遠不変であるものは存在し得ない。

これを諸行無常しょぎょうむじょうと言います。

諸法無我しょほうむが

全ては繋がりで成り立っているに過ぎず、独立して存在しているものは無い=「縁起」

ということで自己(自我)というものも繋がりから縁取られているだけに過ぎず、この世に独立した自己(自我)は存在しない。

これを諸法無我しょほうむがと言います。

五蘊ごうん

この世に独立して存在しているものは無い、という縁起の理論から、仏教の開祖であるブッダ(お釈迦様)は人の人体を5つの要素に分けました。

色蘊しきうん

物理的な肉体。

受蘊じゅうん

感覚、知覚、印象などを受け取る作用。

想蘊そううん

受蘊によって受け取った感覚に己の想念を結びつける。

行蘊ぎょううん

意思と行動のことで対象に積極的に働きかける。

識蘊しきうん

物事を認識し、区別する働き。

五蘊無我ごうんむが

人間とはこれら5つの要素(五蘊)が仮に束になって成り立っているだけで、自我や霊魂などの実体的なものは無いとされます。

これを五蘊無我ごうんむがと言います。

また仏教ではこの世は根本的に「苦」であるとし、苦を「根源的な苦」と「社会生活上の苦」に分類し、それらの苦を総称して「四苦八苦」と呼びますが、この四苦八苦の内の一つに五蘊盛苦ごうんじょうくという苦があります。

五蘊盛苦ごうんじょうく」は「五蘊がままならない=心身が思い通りにならない」という意味です。

つまり五蘊無我ごうんむがとは、この世にしがみつくべき「自己」、思い通りにしなければならない「自己」も存在しないと覚り、苦から解放されなさいという意味になります。

人生とは「今」を懸命に生きること

さて、少々ややこしい単語を交えて書いてきちゃいましたが、ちょっと難しい理論なので中々スッと入ってこないと思いますが、要はですね、仏教の開祖であるブッダ(お釈迦様)はこの世に自我も霊魂も存在しないと言っているのです。

で、ここまでをまとめると…。

  • この世に永遠不変であるものは存在しえず(諸行無常)
  • 繋がりから独立した自己(自我)も存在しえず(諸法無我)
  • 人を構成する要素も仮に束になって成り立っているだけで霊魂などの実体は存在しない(五蘊無我)

という事で。

人の人格や自我はあらかじめ備わっているものではなく、それぞれの関係性、繋がりの中で成り立っているだけに過ぎず、魂というような永続する自己(自我)とは幻である。

となります。

以上のことから私が何を言いたいかというと…

やれ魂だ、やれ前世だのこれらの所謂スピリチュアル系の思想は、命を軽んじる事に他ならないという事です。

魂とか前世とかが何だっていうんでしょうか?

それらの言葉は「今」から目を背けるだけのまやかしに過ぎません。

人生とは「今」を懸命に生きるべきです。

前世の記憶??

たまに「前世の記憶が蘇った」とか言っている人もいますが、そんなものはハッタリもしくは、そう思い込んでいるだけです。

記憶は「今」の状態に依存する

記憶とは往々にして「今」の状態が影響を及ぼします。

乳児の頃の記憶すら殆どの方が覚えていないのでは無いでしょうか?

その時その時、今の自分にとって重要なことしか思い出せません。

認知症になった、ないし脳に損傷を受けた、のような状況になってしまうと、記憶とはどういう働きをするか、大体の方が想像つくんじゃ無いでしょうか。

数十年前のことを昨日と言ったり、ご飯食べたのに食べてないと言ったり、自分の子供の顔も分からない…支離滅裂で曖昧なものになります。

「今」の状態によって記憶とは如何様にも変化してしまいます。

人一人の脳に何人分の記憶が入るのか?

人は都合よく「忘れる」事によって、脳の空き容量を確保しています。

あれもこれも、常に全部覚えていると、とてもじゃありませんが脳は領域不足に陥ってしまいます。

変な話、脳は「手抜き」しています。

一度見たものを、記憶だけを頼りに寸分違わず絵に描くことなんて出来ないでしょう。

見たものの特徴だけを何となく覚えて、データ圧縮しているのです。

そうやって容量を確保しながら、高度な処理を行なっています。

で、前世の記憶が蘇るなら、その前前世の記憶も、そのまた前々前々世の記憶が蘇って然るべきですが、果たして一人の人間の脳に何十人分の一生の記憶が収まり、正常に処理できるものでしょうか?

前世の記憶があるなら社会貢献してはどうか

これはちょっとかねてより思っていることですが、「前世の記憶が蘇った」とうそぶく人たちって基本的にそれで「金儲け」しかして無いですよね?

そんな超人的な能力があるなら、もう少し社会貢献してはどうでしょう?

例えば、前世が同じ時代に生きた人達を集めて、「あの時の暮らしはどうだった」とか「こういう物を食べてて、どんな味がした」とか「こういう物を着ていた」などをディスカッションしてもらうのです。

そこに矛盾を孕んでいないか、食い違いがないかを徹底的に検証するのです。

それがうまくいけば、考古学や、時代考証などは飛躍的に発展するのでは無いでしょうか?

グッバイスピリチュアル

さて、ちょっと横道に逸れましたが、要は「前世」などと言ってお金を要求するような人達は…

皆まで言う必要もないでしょう。

誰もよく分からないブラックボックスを担保に「前世の行いが〜」「来世は〜」とかで金儲けする事は単なるインチキじゃ済みません。

先も書きましたが、それらのスピリチュアルな思想は「命を軽んじる」危うさを孕むと誰もが認識しなくてはならないと私は思います。

うら若き少年少女(もしくは中年、何なら老人)に「前世があるなら来世も」と「今の人生が終わっても次がある」というような錯覚を抱かせるのは決して良いことではありません。

人は生まれ変わるかどうかは知ったこっちゃありませんが、ここまで「諸行無常」「諸法無我」「五蘊無我」の論理で見てきたように、人の人格、自我は周囲との繋がりで形成される物です。

つまり、今の「この私」は生まれ変わっても引き継ぎできません。

「この私」であった何かが生まれ変わったとしても、全くの別人になります。

生まれながら備えた人格、霊魂などの実体は存在しません。

死んでも「この私」が続くのなら、そもそもなぜ今生きている必要があるのでしょうか?

生きていても死んでも変わらないのなら、生死すら意味のないものになってしまいます。

「この私は」今この場にしか生きられない

これを命の大前提とし、スピリチュアルなどはもう創作の中に封じ込めて「さよなら」してしまうのがいいでしょう。

と言う具合で、今回の屁理屈は以上となります。

それではまた!良い人生を!

余談、なぜ霊能者は現れる?

ちょっとした余談です。

さて、こちらにて書きました「前世の記憶が蘇った」とうそぶく人達、いわゆる霊能者の方々ですが、なぜ彼らは後を絶たず現れてくるのでしょう。

私の知人でも何人かそう言う人がいますが、彼らの共通点として「ある日突然に霊能者を名乗り出した」「支配欲や承認欲求が人より強い」という点があります。

ここからは私の推測の域を出ませんが、要は通常のビジネスでは芽が出なかった人達、尚且つそれでも他人にマウントを取りたいという欲求が強い人達が、そういった霊感商法の世界に流れているように思います。

普通に働いても他人にマウントを取れるほどの能力がないので、不鮮明で不確実な「スピリチュアル」なんてブラックボックスを取り出して、自分に都合の良いフィールドを作り上げ「死後の世界」や「前世の業」などを担保に相手を脅し従える事で「支配欲」や「承認欲求」を満たしているように見えます。

他には甘ったれた根性で、人生が自分の思うようにいかないのは、今の自分以外に原因があるとしてスピリチュアルに逃げる人間ですね…

と、これは私の知る人物に限った事なので、全部が全部そうであるとは言えないのですが。

特に人間的に優れている訳でも無いのに、そんな人達に「前世の業がどうとか」言われたく無いですよね。