縁起(因縁生起)
たびたび「縁起」の論理を引き合いに出すので、以前の記事の中から縁起の解説を抜粋し、再編集しました。
以前の記事をまだ読んでない方はもちろん、すでにお読みいただいた方も、是非ご一読ください。
全ては繋がりで成り立っている。「縁起(因縁生起)」
この世界の全ては繋がって成り立っています。
繋がりで成り立っているという考え方を仏教思想では「縁起」といいます。
縁起は「因縁生起」の略で、この世界の事象すべては
によって形成され、この世界に独立して存在しているものは無く、全てが複雑に繋がり絡み合い、全体が相互作用して、それぞれ「個」としての輪郭を生じさせたり、消滅させたりしているに過ぎないという考えです。
これだけ聞くと、おそらく
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でしょう。
ではこの縁起をもう少しわかり易く説明していきます。
Tシャツの縁起
「Tシャツ」を例として説明していきます。
この世の全ては縁起しているという事は、もちろんTシャツもそうです、ではTシャツは如何に縁起しているか見てみましょう。
縁起とは「因縁生起」の略で
【因=原因 ➡︎ 縁=諸条件 ➡︎ 生起=結果】
と先ほど述べましたが、これをTシャツに当てはめると…
【因=原因】はTシャツの素材と言えるでしょうから【布】とします。
【縁=諸条件】は布がTシャツとなる条件を考えると、布の裁断、裁縫、プリント等の【加工】と言えます。
それらを図にすると↓↓↓
という具合になります。
Tシャツとして独立している存在があるわけではなく「要因と様々な条件が繋がってTシャツとしての存在を成り立たせている」これが縁起です。
この世界の全てが縁起して成り立っている
今はわかり易く説明するために
【因=布 ➡︎ 縁=加工 ➡︎ 生起=Tシャツ】
として解説していますが、これは「〇〇の縁起」があって、そして「〇〇の縁起」があって…という風にそれぞれに”閉じた縁起”があるのではなく
この世界の全てが今この瞬間、同時に縁起しているのです。
ちょっとややこしくなってきましたが、大事な事なので頑張って解説してみます…
見る角度や時と場合によって因と縁も変化しますし、縁起を理解する上で「いつどこで切って、どこから見るか」という話で、Tシャツの例で言うと今回は「因=布」としましたが、視点を変えると「Tシャツの因=Tシャツを作った人」という捉え方も出来ます。こうなると布は因ではなく縁となります。
ある一つのものは、必ず他の何かの因であったり縁であったりして、視点や時の流れによって変化します。
更に出来上がったTシャツ自体も因や縁を繋いで行きます。
さて、では視点を戻して、今度はTシャツの因であるとした「布」という単位で切って縁起を見てみると…
【因=糸 ➡︎ 縁=編む ➡︎ 生起=布】
この様な感じになるでしょう。
そして布の因とした糸も、辿れば綿に繋がります。
続いて、綿ならば綿花、綿花ならば品集改良されてきたDNA、更にそれぞれ生産や加工、流通に関わった人たちの人間関係やバックグラウンド…
因と縁は直線上ではなく放射状に繋がり、。
「全体」と「個」が相互作用して縁起している
この世界という「全体」に広がる因と縁が「個」としての存在を浮き彫りにし、またそれらの「個」が「全体」を成り立たせています。
「全体」が「個」の存在を作り、また「個」も「全体」に影響を与えて縁起しています。
「会社」で例えてみます。
「全体=会社」「個=社員」としましょう。
有能な社員がいれば会社としての業績も上がりますし、馬鹿な事をしでかす社員がいれば会社の評判も落ちます。
会社が給料を上げれば社員のモチベーションも上がるでしょうし、逆に給料を下げれば転職する人も出てくるでしょう。
「諸行無常」
「縁起は変化する」と先の項で述べましたが、正しくは「常に変化し続けている」です。
要因(因)に加わる条件(縁)が変われば、生じる事象(生起)も変わりますし、要因(因)が条件(縁)になる場合もあり、その逆もある事は先も述べました。
永遠に咲き続ける花も存在しません。
花は必ず枯れますし、美しく咲き誇っている時が最盛期というわけではなく、花開いた状態も、枯れて朽ちた状態も、単に変化の一過程に過ぎません。
この世に永遠不変であるものは存在しえない(無常)、全て(諸行)の成り立ちは絶えず変化し続けて縁起している。
これを諸行無常と言います。
「諸法無我」
「汝自身を知れ」とは古代ギリシャの古言ですが、この言葉自体にも色々と解釈があるようですが、詰まるところは「自己探求を怠るな」ってところでしょう。自己とは、自分を自分であると認識している「この私」のことです。
しかしながら、先程の縁起の論理によると、全ては繋がりで成り立っているのであるから【この世(諸法)で他との繋がりから独立した「自己」というものは存在しない(無我)】となります。
これを諸法無我と言います。
「この私」を探せ!
自己は存在しないと言われても、今はっきり自分の意思で考えて行動している「この私」はここにいるじゃないか…と思う方もいらっしゃると思います。
では「この私」を「この私」とするものは「この私」のどこにあるのか…何が「この私」を「この私」たらしめるのか…
これこそが「この私」だ!!と呼べるものが果たしてあるのかどうか冒険の旅に出かけましょう。
まずは今の「この私」の状態から「この私」を定義してみますか…。
今の「この私」は〇〇県の〇〇市〇〇町の自宅で、〇〇の服を着て〇〇のイスに座り〇〇のTVで〇〇という番組を見ている。
どうでしょうか、何を説明するにも「〇〇」という自分以外のものを持ち出さないと「この私」の説明がつきませんでした。
今の「この私」の状態からは「この私」を証明できませんでした。
では、「この私」の肉体こそ「この私」でしょうか?
まず肉体のどこに「この私」がいるのか探すべく肉体をバラバラにしてみましょう。
右手?左手?肉片の全てが「この私」でしょうか?抜け落ちた髪も、流れでた血も「この私」でしょうか?
普段切って捨てている爪も「この私」だったのでしょうか?
という事は「この私」は肉片や髪、爪などと共に分裂していくのでしょうか?
なんだか収拾がつかなくなりました。次行ってみましょう。
では意識こそ「この私」でしょうか?
「この私」を探す前に「この私」の意識がどこにあるのか探さなくてはいけなくなりました。
意識とは脳のことでしょうか?しかし、脳も欠損すれば正常な意識は保てませんし、脳も記憶と経験と学びから出来ています。
「〇〇してきた」「〇〇と教えられてきた」の積み重ねで形成されています。
おや、また自分以外の「〇〇」が出てきてしまいました。意識も「この私」以外を持ち出さないと説明できないようです。
ではDNAにこそ「この私」は宿っているのでしょうか
DNAこそ「この私」だ!とするなら、まずそのDNAは何からできているのでしょう?
お父さんとお母さんからはじまり、両祖父母からご先祖様へ…
どんどん遥か太古のDNAまで遡り、ミトコンドリア・イブも通り越して生命の期限へと…果てのない旅の始まりです。
「俺たちの冒険は始まったばかりだ!」
*今まで応援ありがとうございましたマハービート先生の次回作にご期待ください。
ではでは、ダメ押しのゴリ押しです。この私の「魂」はどうでしょう。
古代インド哲学にアートマン思想というものがありますが、アートマンとは「永続する自己」という様な意味で、魂と同意義と捉えていいでしょう。
永遠に続く自己、すなわち、生まれ変わっても「この私」は続いていくという「生まれ変わり思想」の根源ともいえますが…なるほどそうか、魂=アートマンこそ「この私」…
ここでちょっと待った!です。
先の諸行無常を思い出してください。
「全ては縁起によって変化し続けて成り立ち、永遠不変であるものは存在しない」これが諸行無常でした。
ということで永続する自己も存在しえないということになり、どうやら魂も「この私」であるとは言えないようです。
「梵我一如」
古代インドの思想で、宇宙の根本原理「ブラフマン=梵」と、自己の根本原理(永続する自己)「アートマン=我」を一つにする事で(一つと悟る事で)、輪廻(サンサーラ)の輪から解脱(ムクティ)できるとされていた思想。
ですが縁起の諸行無常と諸法無我によって「永遠普遍であるものもなく」「繋がりから独立した自己」もないことからブラフマンもアートマンも存在しえないという事になります。
という具合に「この私」の中に「この私」を探そうとしても最終的にはただの断片になったり、説明のつかない矛盾が出てきたり、他との繋がりなしに「この私」を定義でする事はできません。
「この私」は世界との境界線
さて、では「この私」とは一体なんなのか…
それは、世界との境界線こそ「この私」と言えるのではないでしょうか。
人間は生まれてから、外の世界からの干渉を受けることで、自分と外の世界は同一ではない、境界があると認識します。
母親の胎内にいる頃から外の音も聞こえているので、「オギャー」と出てくる以前、命が宿った瞬間から外の世界からの干渉を受けています。
外の世界からの干渉とは
見て・聞いて・触れて・知って、五感や知識や経験などの外的要因の事を指します
成長と共に自分と世界との境界線が引かれ、輪郭を形成し、境界線の内側を自己(または自我)として自覚する様になります。
ある程度の年齢になると世界との境界線は安定した輪郭を形成しますが(物心ついたと言われる時期)、生きている限り、世界と関わり続ける限り輪郭は変化し続けます。
全く同じ時に、全く同じものを見聞きし、全く同じ人間関係を築いてきた人間などいないわけですから、【世界からの干渉(いつ、どこで、誰から、何から)】が、「この私」を構築すると言えます。
こんな風に書くと「人間は環境で全てが決まる」と主張していると取られそうですが、遺伝も環境も縁起です。
遺伝も「この私」を成り立たせているひとつの外的要因と言えますし、同じ事を見聞きするとしても、先か後かで結果は変わってきます。
全てが影響し合っています。
生まれ、見て、聞いて、感じ、出会い、別れ…様々な因と縁が世界の境界線を引き「この私」の輪郭を生起させています。
日々この瞬間、縁起によって「この私」の存在が成り立っています。
全ては縁起の繋がりで成り立ち、永遠不変なものも、繋がりから独立した自己も存在しえない。
全体も個も影響しあって存在している。
おまけ
さて、ここからは追記領域というか、思い立った事を書き足していきたいと思います。
縁起は決定論?
「この世の中は全て縁起で成り立っている」と言うと、「この世は全ては予め決められた事象で作られており、全て宿命としてすでに決定しており、自由意志なんてものはない」と言う西洋哲学でいう【決定論】的なイメージを持たれるかもしれませんが、それとは大分ニュアンスが異なります。
【決定論】的に言えば、この宇宙の全て予め決められた通りの事しか起こらない事になりますが、【縁起】では全てが影響し合うので、全体の動きが個にも影響を与え、個の選択と行動も全体を動かす要因となります。
さながら「バタフライ効果」のような事が縁起では起こり得るという事です。
「ブラジルで蝶が羽ばたくと、テキサスでトルネードを引き起こす」というアレです。
あり得ない話ですが、これは思考実験の一例です。
つまり運命も宿命も己の行動しだいで変えられるという事になります。
全てが今この瞬間に、影響し合い変化し続けているのが【縁起】です。
これは「ラプラスの悪魔」でも、とても計算出来ないでしょう。
ラプラスは18世紀から19世紀にかけて活躍したフランスの数学者、天文学者です。
ラプラスは「叡智ある存在が、宇宙のすべての天体、物質の原子のすべてを知っているなら、未来も見えているであろう」と述べました。
この叡智ある存在が後に「ラプラスの悪魔」と呼ばれるようになりました。
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